かわらばん
毎月お楽しみに。
世界自然遺産(知床)
2008-09-01
今回北海道、道東の旅行に行ってまいりました。 暑い九州より涼しい北海道へ、と思いついたのですが、釧路湿原・摩周湖で気温は10℃位で大変寒いスタートとなりました。 しかし摩周湖では霧もなく、寒さも忘れるような景色でした。
翌日は知床の自然を散策しました。 知床は平成17年7月に世界遺産に登録され、車の規制(車は途中から入れない)、食べ物の規制(お茶・水以外は持って入れない、お菓子アメ等も持って入れない。理由としてゴミを捨てない。動物にエサを与えない)があり、もちろん禁煙でした。
また、熊・鹿・キタキツネ他の動物等と、うまく付き合っているようでした。ただ鹿については、我が家の山にもたくさんいて全く珍しさはなかった。
自然の散策では猟師のネイチャーガイドと知床の原生林、知床の花(♪知床旅情♪出てくる はまなすの花を初めて見たがバラ科で棘がいっぱいついている花でした)等を、二日間で約4~5時間原生林や湖を歩きながら、季節的には10月初旬並で少し寒かったけれども、雨は一日も降らず、北海道の雄大さ、九州にはない自然と食を楽しみました。
㈱三信建材社
N.S
引 退
2008-08-01
野球シーズン真っ盛り、夏の甲子園・プロ野球後半戦・北京オリンピックと、野球好きにはたまらない時期になった。
テレビを観ながら一喜一憂し、一つのプレーを褒めたり・怒ったり・けなしたり本当に楽しませてもらえます。
こんな盛り上がりの中で、野茂投手の引退は非常に残念でならない。
見ていて楽しい投手がまた一人いなくなる。
野茂が入団2年目の北九州市民球場での、対ホークス戦を観戦した事を思い出す。
この時のホークスの投手は大分県出身の吉田豊彦だった。吉田も好調でお互いに
得点できない。三振の数も、野茂13個で吉田は9個ぐらいだった。
吉田の快速球に野茂の剛球、吉田のボールが高校生ほどの球威にしか見えない
ほど、野茂の球威は凄かった。
球場で実際に見た野茂は、これ一度だった。
この時の迫力は今でも記憶に残っている。
野茂投手の残した数々の記録は素晴らしいものがある。しかし記録よりも、
トルネード・フォークボールと言ったら野茂・・・まさに記憶に残る大投手 野茂英雄。
1995年11月 日米野球 1988年7月 都市対抗
郷土史講座№11(中津 小笠原時代)
2008-07-01
中津 小笠原時代は初代長次(ながつぐ)から長邑(ながまさ)まで5代続きますが今回は初代長次と2代長勝(ながかつ)について話したいと思います。寛永9(1632) 細川忠利が熊本54万石、忠興が八代城に移ると播州龍野(兵庫県南部)6万石から小笠原長次が中津8万石 (上毛郡・下毛郡・宇佐郡)に転封してきます。本家・長次の父・忠脩(ただひろ)は元和元(1615)「大阪夏の陣」で戦死していたため、旧細川藩領(32万石)は中津に小笠原長次、小倉に叔父・小笠原忠真(ただざね)、杵築に叔父・小笠原忠知(ただとも)、龍王に叔父・松平重直(しげなお・松平家へ養子)と小笠原1族4家に分割されます。
(1)初代 長次(ながつぐ)時代
寛永14(1637) 「天草・島原の乱」が勃発すると、中津藩からも2,500名が派兵されます。翌寛永15(1638)2月27日 包囲軍が「原城」を総攻撃し翌28日 天草四郎時貞以下37,000名が殺害され落城します。小笠原長次は、その功績により日田6万石を加増されますが、藩で決着がつかず、幕府に領地を返還します。寛永18(1641) 草本金山(山国町)を長次が本格的に採掘を始めます。草本金山はその後、数度廃坑を繰り返しますが 昭和28年閉山まで採掘され、最盛期坑夫500人が働いていました。細川時代の「御水道工事」も承応(じょうおう)元(1652)に町中に給水できるようになり、この頃中津町14町も完成します。当時、小祝は吉富側と陸続きでしたが明暦元(1655)と寛文9(1669)の2回の大洪水で分断され三角州になりました。寛文6(1666)5月29日 長次は52才で死去します。長次時代は善政でしたが、2代目以降は悪政の為、藩財政を圧迫します。
(2)2代 長勝(ながかつ)時代
長次の遺言で次男の長勝に家督を譲りますが、延宝元(1673) うつ病にかかり、病気養生のためと称して幸子(こうじ・吉富町)に豪華な別荘(48室、3層、内部は金・銀を飾り立てる)を築き、静養する事になりますが毎日歌や舞で宴会続き、この為藩財政は圧迫します。国費の不足を補う為に下士の岩波源三郎に国政を委ねます。延宝6(1678) 岩波は130の条令を出しますが炭・紙・綿などにも重税を課し、その上、毎年起こる旱魃水害により、他国へ逃散する者が続出します。このことが幕府の耳に入り、幕府の叱責を受けます。天和2(1682)11月2日 長勝は江戸にて38才で病死します。
S(サンシン)著
S(サンシン)著
郷土史講座№11(中津 小笠原時代)
2008-07-01
メタボ予備軍
2008-06-01
先日、ズボンを買いに行った時のこと。ふと、店員に自分のウエストが何センチなのかを聞かれて戸惑った。よく考えてみると、体重は自宅や会社の定期健診でも測っていたがウエストを最後に測ったのはいつなのか記憶にない。おまけに“アジャスター”がついているものであれば、自由にサイズを調整できるので今まで気にかけなかったのもあるだろう。もともと学生時代からこれといってスポーツをしていなかった私は、会社に入社して今年の4月で9年になったが、その間も特に運動をするわけでもなく、仕事柄デスクワーク中心の生活でも何ら身体の不調を感じることはなかった。
ところが、30歳を超えたあたりから次第に体力の衰えを感じ始め、それと同時に脂肪(特に腹回り)がなかなか落ちない体質へと着実に変化しつつある状況である。10~20代の頃は、周りのオジサンたちを見ては自分は絶対に・・・と思っていたが、このままでは“メタボ予備軍”への仲間入りをする日もそう遠くはなさそうである。
ちなみに“メタボリックシンドローム(代謝症候群)”とは、諸説あるが日本肥満学会(JASSO)の診断基準によれば、腹囲男性85cm、女性90cm以上が必須。かつ血圧130/85mmHg以上。中性脂肪150mg/dL以上またはHDLc40mg/dL未満。血糖110mg/dL以上。の3項目中2項目以上が該当する場合を言うらしい。 自覚症状がないために予防するには、様々な誘惑にも負けない本人の強い意志が必要である。
これに関連して今年の4月から始まったのが40歳~70歳までが対象となる特定健診・特定保険指導であるが、これも生活習慣病対策ひいては医療費の削減につながるという期待がある一方で、そもそも健診の基準自体があいまいであるとか、保健指導でも改善しなかったり受診をしなかった場合、連帯責任を取らされるのは納得いかないなど賛否両論あるようだ。少し極論になるかもしれないが太った人がいることで企業の社会保障コストが増えるため、職場での待遇に差が生じるのではないかとまで言われている。
いずれにしてもそんな理由で太った人たちが採用されにくくなるような社会にはなってほしくないものである。
㈱三信建材社
K.O
K.O