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株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
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新年のご挨拶

2008-01-01
あけましておめでとうございます。

一昨年の耐震偽装、ガス給湯製品の不具合による死亡事故、談合問題に引き続き、昨年は建築材料での不正や偽装が発覚した年でした。消費者がこの業界に向ける目が更に厳しくなっていくのは確実でしょう。

日本式経営が転換を余儀なくされ、また短期での利益獲得が評価される時代となった弊害として、組織内は利益獲得最優先が職業の倫理とかプライドを上まわり、お客様の顔が見えない結果になるのではと心配しています。

お取引頂く地域の建設業の皆様の繁栄があってはじめて当社は成り立ちます。消費者の厳しい目の中、お取引先の皆様が仕事を勝ち得るための商品をそして情報を提供できるように、㈱三信建材社は社員一丸となって前進していく所存です。

また、昨年当社は8月に創業60周年を無事迎えることが出来ました。これも皆様のご愛顧のたまものと感謝するとともに、お客様が取引する価値のある会社となるため、本年も頑張っていきたいと思っております。更なるご指導、ご鞭撻をお願いいたします。
株式会社三信建材社
代表取締役 大家 覚(おおいえ さとる)

60年

2007-12-01
今年、三信建材社も60周年を迎えることができました
 
昔、むかーし。60年より少しだけ近いむかしです。
馬車でセメントを運ぶのを見ていました。
 
会社に着くと1袋ずつ肩に担いで工場内の指定の場所に運びます、中津駅までは蒸気機関車で運ばれ、貨物車から、馬車までも同じ作業であっただろうと思います、馬の手綱を引いて会社まで運んでくるのです、馬1頭で引く馬車ですから、どれくらいのセメントが積まれていたのでしょうか、馬を鞭打つでもなく、おじさんと馬はいつも同じ速さでした。
 
時に、馬は立ち止まっておしっこを始めます。馬のおしっこ、これが長いのです。いつまでもいつまでも続き、道はおしっこだらけです。大きい方は歩きながらボッタン・ボッタン落として行きます。だからといって、おじさんにも馬にも文句を言うのを聞いたことなんてありません、おしっこは道にしみこんでいきますし、大きい方なんて、畑の肥料だといって塵取りであつめて大事に持って帰る人がいましたから。
 
1袋ずつ担いで、馬で運んでいた60年前リフトに掛けて、トラックで運んでいる現代、そして、ロボットが働く時代になってきているようです。危険な場所、力仕事、又単純な作業は人に替わってくれるのでしょう。
 
60年前、夢だと思っていた事が今現実になっています、
 
若いひとたち、夢を持ってください、そして語ってください、
 
又60年後に夢が現実になっているように。少しずつ確実に楽になっていきます。毎日が楽しく過ごせるように、そんな、会社、そして社会にしたいですね。

大家桂子

「郷土史講座 №9(中津 細川時代)」

2007-11-01
前回に引き続き「FMなかつ」で第3回目放送の時に話した「細川時代」の「織部灯籠」を中心に紹介したいと思います。
 
慶長5年(1600年)、細川忠興は「関ヶ原の戦い」で徳川家康に従った功績により丹後宮津(京都府)11万石から豊前1国(8郡)と豊後2郡(国東と速見)の32万石(1説では39万9千石)を与えられ転封してきました。
 
慶長7年(1602年)忠興は小倉城に移り、子忠利が中津城(写真①)を居城とします。
 
慶長9年(1604年)現在の「行橋市今井」から腕利きの漁師たちを現在の小祝に移住させました。最初は村の名前を小今井村とし、その後忠興は小今井村で酒宴の最中、姫が生まれた事から小今井村が子祝村となり、そして現在の小祝になりました。
 
「小今井 → 子祝 → 小祝」
 
元和元年(1615年)幕府から「1国1城令」が出ます。
 
細川氏は小倉が本城であったため、中津城を何とか残したいと考えます。
 
忠興は江戸にいた子の忠利に手紙を出し、老中と相談させ中津城の残置が認められ、1国に2つの城が許されました。
 
 元和6年(1620年)忠興は家督を忠利に譲り、隠居し「三斎」を名乗り、中津城を隠居城にするため、拡張・修理し、天守閣を取り除きました。
 
その後の小笠原・奥平時代には天守閣を造ることはありませんでしたので、本丸・二の丸・三の丸と8門(大手門他)・22櫓(やぐら)が出来たのも、この頃の細川時代です。(中津城には最初から天守閣がなかったという説もあります)。又、中津城内の飲料水を確保するため、三口から島田の水道口まで水路、城下は地下を石樋で流し中津城内に給水出来るように「上水道工事」が始まったのも、この頃の細川時代です。
                      
【織部灯籠】について
1.名前の由来
   城州西岡(山城国・京都府の南部)の城主「古田織部」が考案したと言われています。又、織部灯籠は別   名 キリシタン灯籠(かくれキリシタン礼拝用の石灯籠)と呼ばれ、特徴としては灯籠の下の方にマント   をまとった人物が浮き出ています。
 
2.なぜ中津に
   古田織部と千利休は茶道の友人、千利休と細川忠興は茶道の師弟関係になります。

   天正18年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りに触れ、切腹を命ぜられますが、
   中津に残っている織部灯籠は千利休が形見として忠興に贈ったものと言われています。
 
3.宗教(キリスト教)との係わり
   忠興・忠利父子は初め、キリスト教に理解を示していました。
 
   なかでも、忠興の妻「玉」(明智光秀の3女)は熱心なキリシタンで、
   洗礼名の「細川ガラシャ」は大変有名です。
 
 関ヶ原の戦いの時、ガラシャ夫人は石田光成が家康に従う大名の妻たちを人質にしようとしますが、人質となる のをこばみ、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世を残し、自害しました。
 
 元和6年(1620年)忠興はガラシャ夫人の冥福を祈るために城内二の丸(現、裁判所の位置)に「長福寺」を 建立します。中津に残る織部灯籠は「長福寺」へ奉納されたものと、言われています。現在、中津市には織部灯 籠が3基、自性寺(新魚町)、養寿寺(浦町)、井上邸(殿町)に残っています。寛永9年(1632年)熊本城の 加藤忠広(加藤清正の子)が幕府の御法度にふれ領地没収、国替えとなり、忠利は熊本54万石へ転封し、忠興は 八代城へ移って行きます。
           
S(サンシン)著
 
①中津城
②自性寺の織部灯篭
③養寿寺の織部灯篭
④井上邸の織部灯篭

七回忌

2007-10-01
松垣さんのお見舞いに行きました。人間が年齢を重ねますと、病気にもなります。その時松垣さんが、ベッドの上に正座なさって、「2001年10月7日、大家朝司さんは亡くなりました。私は決して忘れません」と、おっしゃいました。
 
病気になるのと同様に人間は死ぬもの、ですが、死んだ父を生きている人が、このように覚えていてくださることに感動しました。生きている我々が死んだ人を常々思い出すことは、仏壇でお経をあげること以上のものであろうと私は考えています。
 
大家朝司の七回忌がきます。60年前、まだまだ住む家を持たない人が大勢いる時代に(勿論私たち家族もそうでした)「一軒でも家を建てるために」と瓦の製造を始めた父ですが、たくさんの家が建つ豊かな時代も見て幸せだったと思います。
 
社員とその家族の幸せが常に最優先であったこともここに書き添えます。10月7日一回だけ大家朝司を思い出してくだされば幸せに思います。
ありがとう。
 
影木正子

ハチの初盆

2007-09-01
平成8年8月8日、その犬は我が家にもらわれてきた。だから名前は「ハチ」。
 
お盆を控えて墓参り準備のため、妻が近所の仏具屋さんに買い物に行った。その店先で妻の足元にじゃれつき、ついには足首にかみついた子犬がいた。
 
「なに この犬」。
「2,3日前となりのお寺さんの境内に捨てられたらしいの」。
「かわいい顔しているね」。この一言で決まった。
「もらってくれる」。
 
 店の女主人は急いでダンボールを妻の自転車の荷台にくくりつけた。そして子犬をダンボールに入れると、ちょっと待ってと言って店の奥から茹でたてのトウモロコシを3,4本一緒に持たせてくれた。
 
 犬も性格は生涯変わらないものだ。捨て犬で来たにもかかわらず、主人の私にも“フン”とした態度で、まったく媚びる様子はなく尻尾も振らず偉そうにしていた。高二・中三の息子が受験期のイライラで八つ当たりをしても、ハチは知らん顔。反抗するでもなく、怖がり怖気づくわけでもなく、へらへら追従することもなく、普段のままの自然体であった。
 
 ハチは柴犬と秋田犬の雑種だった様でかなりの大型犬になり、毎日の散歩が大変であった。ここ数年は専ら妻の役目となっていた。吠えると迫力があり子犬がびっくりしてひっくり返ったほどだったが、ムダ吠えはしなかった。秋田犬にしては足が短く、クルッとしたかわいい目をした穏やかな顔をしており、散歩ですれ違う人達からは「やさしそうないい犬ね」とよく声をかけられた。あんがい外面が良かったようだ。
 
 昨年11月、首に腫瘍ができリンパ線の近くなので手術は無理。薬だけの治療しかないと宣告された。今や犬の死因の大半が事故と癌だそうだ。
 
 病院やペットホテルを何よりも嫌い、我が家の狭い庭が、木陰で寝たり、バッタを追いかけたり、モグラやヘビを退治したり、ボール取りで走ったりと唯一くつろげる自分の居場所であったので、出来ればその場所で最期を迎えられたら・・・・と願っていました。
 
 平成19年3月31日ハチは土に還った。西行法師も願った桜が満開の頃であった。
 
ハーハーとあらい息づかいをしていたハチは、ゆっくり歩きながら直前まで妻とアイコンタクトをとっていたようで、「今まで 楽しかったよ ありがとうね。もう楽になっても良いよ」、「そこは暑いから こっちにおいで」と声をかけ、物干しして振り向くと静かに横たわっていたそうです。
 
 覚悟はしていたものの、いなくなるとやはり寂しい。眼がつい庭先のハチの姿を追う。
 
何度追っても姿はないのだが、隠れ家の基地から尻尾をふりながらぶらり歩いて出てきそうな錯覚におちいる。
 
 翌日、気持ちに整理をつけるため、最後のお別れをした。妻が遺骨の入ったリックを背負い、いつものお決まりの散歩コースを一緒にラストウォークした。あんなに毎日、どんな悪天候でも欠かさずに散歩していた大分川の土手にあの日以来妻は近づきもしない。
 
 今年 ハチの初盆が来た。
 
 ハチのやさしかった眼差しを思い浮かべながら
 
 こころのなかでつぶやいた ハチ ありがとう
 
合掌
経営管理部
S.H
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