本文へ移動
株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
RSS(別ウィンドウで開きます) 

郷土史講座 №6 (織部灯籠)

2006-09-01
今回は『織部灯籠』について書きたいと思います。
 
別名「キリシタン灯籠」ともいい、「かくれキリシタン礼拝用の石灯籠」です。名前の由来は城州西岡の城主「古田織部」が考案したところから『織部灯籠』と名付けられました。
 
古田織部は千利休と茶道の友人同士で織部流茶道の元祖です。
古田織部と友人である細川忠興は千利休と茶道の師弟関係になります。
 
慶長5(1600)細川忠興は関ヶ原の戦いで徳川家康に従って功により中津に入府し、元和6(1620)妻「玉子」(ガラシャ)がキリシタンであったので、冥福を祈るために中津城内二の丸に「長福寺」(現、裁判所の位置)を建立しました。
 
中津に残る織部灯籠は、長福寺へ供奉されたものと伝えられています。現在中津市内に残っているのは、自性寺(新魚町)、養寿寺(浦町)、井上邸(殿町)の3基が残っています。

【解説】
①古田織部(1543~1615・73才)
安土桃山時代~江戸初期に山城国西岡の城主で35,000石を領していた 元和元(1615)大阪夏の陣直後、徳川家康に陰謀を疑われ、死罪を申 し渡され切腹
 
②千利休(1522~1591・70才)
堺の魚屋の子として生まれる安土桃山時代の茶人、織田信長・豊臣秀 吉に仕えて遇が厚かった天正18(1591)(千利休70才、古田織部48才、細川忠興29才)2月13日 豊臣秀吉の怒りにふれ堺を追放、切腹を命ぜ られる2月28日 千利休、切腹
 
③細川忠興(1563~1645・83才)
慶長5(1600)丹後田辺(京都府)11万石より豊前1国と豊後2郡( 国東・速見)中津39万9千石(一説には32万石)に封ぜられる千利 休の門人7哲の1人寛永9(1632)細川忠利は肥後(熊本)54 万石、隠居の身の忠興は八代へ転封
 
④細川ガラシャ(1563~1600・38才)
細川忠興の妻、明智光秀の三女、キリシタン信者関ヶ原の戦いで石田 三成挙兵に際し、大阪に残っていた大名の妻子を人質として大阪城に入 れようとしたが、拒んで自害
 
S(サンシン)著
 
中津市新魚町 自性寺
中津市浦町 養寿寺
中津市殿町 井上邸

上高地~黒部ダム~黒部峡谷の旅

2006-08-01
今年の5月12日(金)から2泊3日、取引先の方々と旅行に行ってきました。
 
福岡空港発~中部国際空港着の70分間の空の旅から初日は始まりました。中部国際空港は開港後1年2ヶ月ぐらいで、非常に広々としたきれいな空港でした。
 
今回はバスツアーで、名古屋市より上高地を散策して長野県の大町温泉郷までが初日のコースでした。ほとんどがバスの移動で昼食もバスの中でとり、目的地の上高地に到着しました。バスを降り、川沿いを歩いていきましたが、まだ雪が残っている穂高連峰の山々を見ながらの散策はこの近くでは考えられないくらい空気が澄んでおり、山の高さも3,000m級で、今までに見たことのない景色が広がり気分爽快でした。
 
2日目は朝から雨が降りあいにくの天気となり、カッパを着ながらの見物となりましたが、今回のコースで一番の見どころばかりなので皆さん頑張って乗物を乗換えながら、黒部ダム→黒部湖→黒部平→大観峰→雪の大谷(室堂)→美女平→立山を見物しました。

途中から雨が雪となり、大観峰や雪の大谷(テレビで写っている雪の壁)では雪が残っており、日本の広さを感じました。添乗員さんいわく、“今日はゴールデンウイーク後なので人は少ない”と言っていましたが、私から見ると非常に多く、休憩するにも座るイスがない状況で皆さん階段に座りながら休んでいたのと、子供が少なかったのが、印象に残っています。
 
3日目は宇奈月温泉からトロッコ列車に乗り込み鐘釣まで旅を楽しみました。この日は前日の雨が嘘の様に晴れ、すがすがしい気持で楽しめた一日でした。昼食も富山名物の白エビを堪能し、小松空港から帰路に着き楽しい旅行が終わりました。
 
久しぶりの旅行でしたが、ケガもなく無事に終り、又、機会があれば今度は家族で行きたいものです。

T.Mより

「あの惨劇は昨日の事のようで、生涯忘れることはない」

2006-07-01
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年) 6月29日朝、沖縄の守備要員として沖縄に向って航行中の輸送船「富山丸」は、徳之島町亀徳沖で米軍潜水艦から発射された三発の魚雷により撃沈され、約3700余名が犠牲となった。この大惨劇の目撃者や負傷者の救護、遺体収容に当たった住民の代表と私達富山丸遺族会で「富山丸を語る集い」を 4月23日亀徳の「なごみの岬公園」の慰霊碑の前で行った。
 
今回は戦後62年になるが初めての試みとして遺族側が要望、徳之島町が主催した。
 
地元の生き証人の代表は当時13歳~17歳の尋常高等小などの生徒だった、同町亀津の永吉さん(91才) 牧さん(78才)、同町亀徳の 富さん(75才) 秋丸さん(74才)の4人。真夏を告げるように群青色に輝く海で62年前に起きた地獄絵について口を開いた。
 
◎吉永さんは当時について「毎日のように船団が南下、その日は船団(計12隻)が多くて気になっていた、駆逐艦のほか空には飛行機も1機飛んでいた、そのとき突然、汽笛を鳴らし始めながら船団が崩れた、その直後、富山丸は ノコギリで切られたようにちぎれ、1 分も経たないうちに沈んだ。
 
語る集い『生き証人の住民と遺族会』
 
◎勤労作業中だった牧さんは、教師に「日本の船団が威風堂々と南下しているのでよく見なさい」と言われ船団を眺めた、そのとき、迫力のある汽笛が三回ぐらいなり、不思議に思った直後魚雷攻撃で分断された「富山丸」は 「すーっと立ち上がって沈み、その横では水晶のような水柱。海上ではドラム缶が次々と爆発炎上、一面火の海となった」。
 
◎富さんは 住民と共に負傷者の救護や、遺体の収容に奔走した一人 「突然の汽笛に続いて ドーンと轟音が響き、船が沈んでいくのが見えた。焼け焦げた兵隊さんたちが運ばれ、手をつかんだらズルッとずれた。全身を焼かれて両眼が飛び出した人、今でも涙が出ます」 おびただしい遺体を海岸で火葬したことにもふれ 「戦争は二度としてはいけない」。
 
◎同様に陸上で救護に当たった秋丸さんも「父が救助の漁船を出したが中には、自分より隊長を助けて語る若い兵隊さんもいた」などと証言。遺族ともども涙につつまれた。私ども遺族会との質疑の中で 永吉さんは、3700余名もの将兵、乗組員が船と共に運命を供にし、海上の火炎地獄の犠牲になった点で 「戦闘準備をしたまま足にはゲートルを巻き、救命道具を着けていなかったら半分は生き残っていたと思う」さらに 『救助された負傷者も手を着けられずに死んでいった。なぜ軍医がいなかったのか不思議でならない』とも話した。
 
席上では、勝重蔵町長が、当時亀津郵便局長だった父が 「富山丸の悲劇」について書き残した日記も紹介。また住民を挙げての救助活動や慰霊祭に 球第一六一六部隊長の牛島満陸軍中将が軍機密文書として託していた「お礼状」も朗読紹介された。
 
私は 富山丸の最期をしっかりと見た人達の話を聞けて本当に良かった。今日の日本の平和はこのような幾多の苦難を乗り越え国際社会においても重要な地位を締めるに至った陰には多くの方々の尊い犠牲があったことを決して忘れてはならないそして私達遺児が先頭に立つてこの悲惨な出来事を子供や孫に伝え後世に英霊の方々の心を語り継ぐことが責務であると思っています。
 
大豊道路 羽立征雄

WBC

2006-06-01
今年は野球の WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が開催され、野球好きな私としては大いに楽しむことが出来た。
 
12球団を代表するプロの選手達が、一流選手としてのプライドや名誉を懸け戦う姿は、通常のペナントレースにはない迫力を感じた。また、短期決戦でその緊張感も一層増したように思う。
 
国別対抗戦なので、アメリカ・キューバを筆頭に世界の強豪と日本がどこまでやるか、日本のレベルを知る上でも興味があった。
 
日本のトップレベルの野茂投手・イチロー選手は、アメリカでもトップレベルの実力を証明しているし、その他の選手も多くがメジャーリーガーとして活躍をし、その実力を認められている。
 
アメリカ・キューバに対してどこまでやれるか----- まあ過去のオリンピック等の国際試合を見ても精々3位・良くて2位くらいかと勝手に思っていた。
 
しかし、その結果はあのチームにここまで苦戦をし、そして最後は運も実力の内を、見事に証明し栄冠を勝ち取ったのだ。
 
あのチーム「韓国」今回の戦いでもっとも印象に残りそして強かった。
 
野球の歴史からして、日本のトッププロの戦いになれば、まだ日本選手の方が個々の技術は勝っていると思うが、勝ちたいと願う気持ち、相手を倒したいと思う執念は韓国チームの方が上回っていたのではないかと思う。
 
アジア予選から本大会の一次予選で二度も負けて、アメリカのまさかの敗戦で準決勝へ進み、そこでまた、三度目の激闘を演じた。
 
日本の選手は二度の敗戦で韓国チームの執念を知り、三度目にその執念に勝った。技術より心の戦いではなかったか。
 
予選をトップ(全勝)で通過して、準決勝で予選と同じ組の日本に負け、決勝に進出できなかった韓国には気の毒な気がしてならない。
 
「野球とは全然関係ないが、今の日本と韓国は領土並びに靖国神社等の政治的な問題でギクシャクしているし、韓国からのニュースは日本人に敵対している場面が多く報道されている。個人的には韓国という国はあまり好きではない。」
 
しかし、スポーツは違う。韓国チーム金監督の最後のコメントは、スポーツマンとして、指導者として本当に素晴らしいと思う。金監督は「日本は今大会で最も組織立っているチームで、チームの質もわれわれより上だ」とコメントしている。
 
謙虚な姿勢を崩さず相手の勝利を称える。監督として人間としての大きさを感じた。
 
決して大リーグが野球の頂点ではない。アジアのそして日本の隣に、こんなに強いチームがある。
 
次回の韓国戦を楽しみにしたい。
 
K.O

『郷土史講座 №5(惣町大帳)』

2006-05-01
奥平氏が享保2年(1717)中津に入府後、中津町14町は6つの組に分けられました。享保3年(1718)6月21日、各組より一人が町年寄に任命され、「交代で月番を勤め、毎月6回『町会所』に集まって町の諸事を相談して決めよ」とのお触れがでました。当時の「6つの組」の組名・町名・町年寄りをまとめますと次のようになります。
 
  組名 町名 町年寄
新博多町組 新博多町・新魚町 亀屋惣左衛門
古博多町組 古博多町・米町・姫路町 玉屋与右衛門
京町組 京町・諸町 はりまや半七
古魚町組 古魚町・船町・塩町 美のや六右衛門
桜町組 桜町・豊後町 播磨屋吉右衛門
堀川町組 堀川町・角木町 菊屋伝左衛門
 
町年寄が町会所に集まって決めた事の記録=『惣町大帳』です(写真①、②)。
 
明治維新の際、紙ホゴとして大阪方面に船積みされようとしていたものを当時の豪商 播磨屋(京町)小畑利四郎が買い戻し現在に至り、中津市立小幡記念図書館に110冊が所蔵されています。私も原本を一度しか見たことがありません。
 
去年の6月の事、中津地方文化財協議会会長の中尾先生より鄭重な手紙を頂きました。
 
内容は今度「惣町大帳解読実行委員会」を設立して、まだ翻訳製本されていない残りの分を市民の有志で翻訳製本しようという手紙でした。
 
古文書を始めてまだ4・5年の私にとって到底出来る仕事ではないと思い早速、先生の家にお断りに訪問しましたが、先生の熱意に負け結局お受けする事にしました。
 
私の担当は天保11年(1840)の1年間分を、1年間で解読・パソコン入力をすることです。
 
今も時間を見つけては難解な字に苦戦しながらも、いつの日か私の解読した惣町大帳が世に出ることを楽しみに毎日パソコンのキーボードをコツコツとたたいています。
 
S(サンシン)著
惣町大帳①
TOPへ戻る