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株式会社三信建材社
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 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
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「郷土史講座№8 黒田時代」

2007-08-01
①姫路町
②京町
③合元寺
④城井神社
⑤如水の井戸 №1
⑥如水の井戸 №2
前回に引き続き「FMなかつ」第2回目の時に話した「黒田時代」の原稿をもとに「合元寺の赤壁事件」を中心に話したいと思います。
 
天正15(1587)豊臣秀吉は「九州征伐」で島津軍平定を終え、豊前国8郡のうち、企救(きく)郡(現、小倉・門司)・田川郡(現、田川市)の2郡を毛利勝信に、残り6郡、京都郡(現、行橋市・苅田町)・仲津郡・築城郡(現、築上町-築城・椎田)・上毛郡(現、豊前市・上毛町・吉富町)・(現、行橋市・みやこ町)・下毛郡(現、中津市)・宇佐郡(現、宇佐市)を軍(いくさ)奉行であった「黒田孝高」に与えました。石高は12万3千石、一説には15万石・16万石と言われています。
 
孝高は山国川の河口に城を築きますが、この地は瀬戸内海に面しており、京都・大阪に直結していました。中津城は別名、「扇城」と呼ばれますが、黒田時代の城全体の地形は本丸・二の丸だけで四角形でした。関ヶ原の戦い後、入府してきた細川忠興が山国川河口から扇形に拡張し「扇を広げた形」に似ている事から「扇城」と呼ばれる様になりました。
 
孝高は町づくりを始め、2つの町(姫路町と京町)をつくります。
 ※姫路町…孝高の出生地の姫路から連れてきた職人や商人が住んだ町(写真①)
 ※京町 …当時の中心だった京都から移住させた商人が住んだ町(写真②)
 
入国した孝高は次々と反黒田勢を破りますが、最後まで抵抗した宇都宮鎮房(しげふさ)に手を焼きます。
 
≪合元寺の赤壁事件≫
まず、宇都宮氏にふれますと文治3年(1187)源頼朝から平家残党狩の功をかわれて豊前の「地頭職」に任ぜられた宇都宮信房は最初、京都郡みやこ町犀川木井馬場の神楽城(祓川横)に住み着きます。
 
 ※宇都宮…栃木県の県庁所在地
 ※祓川 …英彦山から行橋市今井に流れる川
 
1330年頃、築城の「城井谷」に移り住んで「城井氏」を名乗ります。
 
この頃の城とは大きな館・城館です。
 
旧中津市内にも32の城館がありました。
 
近くでは、宮永城・牛神城・一ッ松城・池永城・田丸城(福島の長久寺)・末広城(永添の正行寺)等がありました。
 
 ※田丸城-文明9年(1477)福島但馬守長久が福島城を築き、隠居し田丸城を築城。その後、黒田孝高に敗れ、出家し長久寺を建てる。
 ※末広城-天正7年(1579)末広城主対馬守正行は宇都宮一族の野中鎮兼(長岩城主)に敗れ剃髪し、正行寺を建てる。
 
天正15年(1587)10月5日、黒田長政は城井谷をせめるが、壊滅的な打撃をうけ敗北します。翌天正16年(1588)4月20日、城井氏に最後まで手を焼いた黒田孝高は、城井鎮房を中津城内でだまし討ちにします。
 
『子の長政の嫁に鎮房の娘「千代姫」をもらいたい』と申し出、和睦をはかったのです。城内で酒宴の最中に切りつけられた鎮房は最期をとげ、合元寺で待機を命ぜられていた供の侍200人も黒田に攻められ、激しい戦いで寺の白壁に血が飛び散り、何度塗り替えても血がにじみ出る為、壁全面を赤く塗った。これが「合元寺の赤壁」の由来です。(写真③)
3年後の天正19年、長政は城井鎮房の冥福を祈り、中津城内の山国川沿いに、「城井神社」を建立します(写真④)。天正19年(1591)8月、(孝高46才の時)全国平定を成し遂げた、豊臣秀吉は朝鮮出兵の為、肥前松浦に「名護屋城」築城します。
 
築城は加藤清正で有名ですが、縄張は黒田孝高がしました。孝高は縄張の名手で他に広島城・高松城も手がけています。当時、「名護屋城」は大阪城に次ぐ巨大な規模でした。全国から集められた大名の陣屋の数は160ヶ所と言われ、徳川家康、伊達政宗、加藤清正などの陣屋が見られます。
 
名護屋城跡に行くときは、駐車場横の「名護屋城博物館」を見学してから、実際に見て回ると理解が深まると思います。
 
慶長5年(1600)黒田孝高・長政父子は「関ヶ原の戦」(家康方の東軍に参加)の功績により、筑前名島城52万石に加増転封していきます。
 
しかし、名島城(福岡市東区・海岸)は城の規模としては手狭で新たに城を築いたのが福岡城(福岡市中央区、現在城跡は舞鶴公園)です。中津では天守閣を造る暇もなく、本丸と二の丸だけ、城門も大手門のみを造るだけでした。
 
黒田孝高は長政に家督を譲り、孝高自信は大宰府天満宮の近くに隠居しますが、使用していた井戸が天満宮の桜門の横の宝物殿から「九州国立博物館」や「だざいふえん」に行く道に『如水の井戸』として残っています。(写真⑤・⑥)
       
S(サンシン)著

「八百長?」

2007-07-01
八百長(やおちょう)とは、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること。いんちき。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア』
 
大相撲に八百長はあるのでしょうか。最近もまた週刊誌などで取沙汰されていたようですが、私個人の意見は、「ないと信じたいけど、あるだろうなあ。」というところです。アマチュアスポーツじゃありませんし、興行の世界ですから。
 
 元力士の暴露話によると、強い力士が弱い相手に八百長を依頼したときは、話がまとまりやすいのだそうです。つまり、「本気でやってもかなわない。どうせならお金を貰って負け役を引き受けておくか。」と思わせる力量があれば、星(勝ち)を買いやすいと。買う側にしてみれば、いくら強くても勝負に絶対はありませんし、怪我などのアクシデントを避ける意味もあるのだそうです。真偽はさておき、興味深い証言です。昨今、図抜けた強さを発揮し続けている横綱:朝青龍も八百長をしているのでしょうか?だとしたら非常に残念ですが。
 
忘れられない一番があります。今から遡ること3年前、2004年名古屋場所。中日8日目の結びの一番、朝青龍に対するは琴ノ若(引退・現佐渡ヶ嶽親方)。若き横綱:朝青龍は初日から負けなしの7連勝。琴ノ若は番付こそ前頭ですが、懐の深いベテラン力士です。
 
この日も朝青龍は速い動きで攻めますが、少々強引でした。もろ差しから下手投げにいったところ、琴ノ若に得意の左上手で投げ返され、裏返しにひっくり返ったのです。行司軍配はもちろん琴ノ若の勝ち。横綱に土がつく波乱に、座布団が乱れ飛んだのでした。
 
 TVで観戦していた私は、豪快な上手投げに興奮しながらも、なんともいえない違和感が…。「最後の体勢が、なんか変な感じだったなあ。」と思っていると、物言いがつきました。審判団による協議の間、スロー再生が流されます。
 
 よく見ると…なんと!朝青龍は投げられ裏返しになりながらも、刹那、琴ノ若のマワシを離さずに粘っていました。土俵についているのは足の裏だけ、ブリッジをするような絶体絶命の体勢です。さらにそこから琴ノ若の方を向き、意識的に押している!?すると投げ勝ったはずの琴ノ若の方が、先に土俵に手をつき膝も崩れ落ちてしまいました。朝青龍はその後もう一押し、ダメを押すように身体を伸ばしきって力尽き、背中から土俵に落ちました。この間コンマ何秒でしょうか。スロー再生を見なければとても分からない珍妙な結末でした。私は朝青龍のヘンテコな格好にTVの前で爆笑しつつも、最後まであきらめない姿勢に深く感銘を受け、うなってしまったものです。
 
さて、審判団協議の結論は、これまたビックリ「同体にて取り直し。」でした。この場合、琴ノ若の先についた手をどうみるか、が判定の鍵です。相手の体勢が危険なときにとっさにかばう「かばい手」とするなら、軍配通り。そうでないならやはり、朝青龍の勝ちとすべきでしょう。大相撲はスポーツでも珍しく、ビデオ録画を審判の判断材料の一つに用いています。スロー再生を見れば、落ちたのが同時でないのは明白ですから、この「同体にて…。」という判断は、私には理解できません。審判団は、軍配をどちらに上げるにせよ、勝ち負けを決して欲しかったものです。
 
その後の取り直しの結果は、切り返しで琴ノ若を土俵に転がし、朝青龍が勝ちましたが、もしあの驚異の粘り腰で朝青龍の勝ちとなっていたら、どのような決まり手になるのか?取り組み結果に残らないのが残念です。まあとにかく、さすがにこの一番が八百長ってことはないと思いますが…どうでしょう?
 
※この一番は今でも、動画共有サイトYouTubeなどで閲覧可能です。
http://www.youtube.com/ (検索キーワードはkotonowaka)

「日本と韓国 ワッタリ(来たり) カッタリ(行ったり)」

2007-06-01
2002年、日韓共同開催のW杯が開催された年のある日のことだった。
 
毎日同じ時間に起き、会社に行って帰って、気の合う仲間たちと遊び、お酒を飲み変わり映えのしない毎日の中で「何か」を始めたいと思った。
 
当時、私は27歳。独身貴族。
海外旅行に行くときの為に「英会話でも習おうかなぁ?」と思った。
が、外国語を習うとなると、気になるのが、高額な「月謝」。
躊躇し、決めかねていたある日、家族で、ある焼き肉屋へ食事に行ったときその店の奥さんから「ハングル教室を開くんだけど、一緒に習ってみない?」と誘われた。
 
その教室の月謝は、たったの500円というありえない安さだった。
「ま、500円なら駄目でもあきらめられるし」と、かんたんな考えでハングル教室に通うことを決めた。
 
当時はまだ韓流ブームが来る前。もちろん『冬のソナタ』も放送されていなかった(はず)。だから私は「冬ソナ」ブームにのっかってハングルを習い始めたミーハーではない!ということだけは、声を大にしていっておきたい。
 
当時、SMAPの草なぎ剛さんが「チョ・ナンカン」という名前で、韓国語の曲を発売し、
流暢な韓国語をしゃべり、大統領にインタビューをしたり、韓国のメディアに出演したりしていた。「アイドルの彼が出来てるということは、きっと私もできる?!」という甘い考えを抱いていた。
彼の、裏側でのモノスゴイ努力を知るまでは・・・・。
 
甘い考えでは習得できっこない!と気づいた私は、本気で勉強に取り組んだ。そして韓国の映画やドラマ、料理や文化についても興味を持ち始めた。
 
「あいうえお かきくけこ さしすせそ・・・」という「五十音図」は古代に韓国から渡ってきた伽耶人の子守唄「ねぇ、なぜ泣くの?新しい服をぐちゃぐちゃにしてさぁ洗って・・・」からきたものだとすると、みなさんはさぞ驚くでしょう。
これはハングル教室の先生から戴いた『韓和似典(カンワジテン)』という一冊の本で知った。
韓国語を勉強していると、日本語とよく似ていることに気づきます。
 
無事にたどり着いた「ワッソ(来た)」という言葉は、祭りの掛け声「わっしょい」。貧しかった日々の「カナン(貧しさ)」の辛さからできた「かなしみ」。
泣きながら海を渡った「ウルム(泣く)」が変化した、復讐心の強い「うらみ」。「タジョガネ(暮れていく)」が、「たそがれ」・・・・まだまだある。
 
おととしの夏、500円の教室の先生は、日本での任期を終え、韓国に帰国した。と同時に、教室は自動解散。せっかく覚えかけた韓国語を途中で止めたくない、という思いから、別の教室を模索していたある日、同じ教室に通っていた友達から、安心院町でハングル教室ができるという情報が入った。
もちろん入会、そして現在も通いつづけている。
 
そして私の韓国語歴も、通算4年目を迎えた。読み書きはできても、ネイティブ・コリアンとの会話はなかなか上手くいかず、まだまだ草なぎくんには追いつけずにいる。
 
宇佐支店 C.K.

本当に少子化ですか?!

2007-05-01
(左から:紋菜・倖菜・大起)
わが家に双子の孫が誕生しました。二卵性の男の子と女の子です。
 
長女(3歳)も赤ちゃん返りで、まるで3つ子の様。
 
今年は暖冬でしたが、エアコンを入れっぱなしで世話をした為、九電の検針のおばさんが何かあったのかと心配したほどに電気料がかかってしまいました。そのおかげなのか今年は珍しく、家族全員風邪もひかず健康でした。
 
最近では、笑ったり、声を出したりと、益々にぎやかになってきた孫たちを、昼間は81歳の“大ばあ”が「腰が痛い、腰が痛い」と言いながらも、泣き声がすると腰の痛みを忘れて世話をしてくれます。“大ばあ”に感謝 感謝。
 
夜は毎日お風呂に入れるのがまた大変です。3歳の長女を入れ、次々手際よく双子を入れなくてはなりません。
 
還暦を過ぎた今、子育ての大変さを実感しています。
 
少子化もどこへやら・・・。
 
三不 N.K.

「郷土史講座 №7(中津城の見所)」

2007-04-01
昨年の12月、1ヶ月間「FMなかつ」の「Let‘s know ふるさと(毎週土曜日 am9:00~am10:00)」に郷土史の話で出演することになりました。今回は第1回目(12月2日)の時、前半で話した「中津城の見所」の原稿をもとに書きたいと思います。
 
本題に入る前に「中津藩」の素晴らしい所・興味を引くところを列挙してみますと、
1.九州で大大名と呼ばれた福岡城の黒田、熊本城の細川が中津から転封(てんぽう)していった。
2.幕末の頃、中津は大分県下第1の大市街地であった。
 1位 中津10万石、 2位 岡(竹田市)7万石、 3位 臼杵5万
 4位 日出2.5万石、 5位 府内(大分市)2.1万石、 6位 佐伯2万石
3.明治4年の廃藩置県後、中津藩は、
 明治4年7月「中津県」
 明治4年11月「小倉県」-下毛郡、宇佐郡とともに新設の小倉県に編入(当時全国で3府73県)
 明治9年4月「福岡県」-小倉県廃止に伴う
 明治9年8月「大分県」と変遷し、最終的に大分県に落ち着きました。

『中津城の見所』
 天守閣に登るだけでなく、城の周りを歩いてみると、たくさんのおもしろいことを発見します。
(1)「天守閣」
現在の天守閣は昭和39年に建設されましたが、中津城に天守閣があったかどうかについては議論されます。元々、中津城には天守閣がなかったという説と元和6年(1620)細川忠興が中津城を隠居城にするために天守閣を取り除いたという説があります。

(2)「薬研(やげん)堀」
薬研とは、漢方の薬をすりつぶしていた器具のことで、V字形になった底の堀を呼びます。他には底が方形の「箱堀」、底が丸い「毛抜堀」等があります。よく堀を見てみると、祇園車の車輪を堀の底に沈めています。

(3)「上段・下段」
「下段」は現在の公園地で駐車場になっていますが、当時は城内の仕事場=政庁でした。「上段」は現在の天守閣のある所で公園地より1段高く、当時は主に藩主の住居がありました。    

(4)「御花畑」
昭和30年代後半(?)だったと思いますが、遊園地がありました。
プール、観覧車、ゴーカート等があり、小学生だった私も時々プールに泳ぎに行っていました。当時は薬草を植えていました。    

(5)「三斉池」
細川忠興(剃髪して三斉)が造った池、城内の防火用水として使用されていました。    

(6)「黒田と細川の石垣」
天守閣の北側(中津城会館の前、向かって右側が黒田孝高、左側が細川忠興の石垣、黒田と細川の積み方の違いが見て取れます。黒田時代の石は四角く、川向こうの唐原遺跡(7世紀)の石を川を伝って運んだものと言われています。

(7)「南側の大鳥居横の石垣」
教育委員会が現在、石垣の積みかえ工事中、黒田の時代と細川の時代の石垣の幅、高さの違いが見て取れます。
歴史民俗資料館から公園地までの道路は明治4年に造られ、そのとき石垣を壊し、大鳥居を建てました。

(8)「生田門」
三の丸(現三ノ丁)には奥平七族と上級家老生田四郎兵衛の屋敷門です

(9)「8門」と「22櫓(やぐら)」
1.北門      北門橋の近く
2.樫ノ木門    北門を少し南に入った所
3.椎ノ木門    裁判所より西の鳥居をくぐった右側
4.黒門      裁判所南側、礎石が残っている
5.大手門     南部幼稚園の砂場、黒田如水、犬丸城の古材木
6.西門      汐湯の前の道を南に行った所
7.水門      汐湯の前
8.鉄門      中津川への出口、昔は通れたが現在は塞いでいる
 
※22櫓 本丸に15櫓、二の丸に4櫓、三の丸に3櫓、合計22の櫓があった武器や道具類を収めていた
           
最後になりましたが、友達が中津に遊びに来た時、親戚が中津に寄った時、「歴史のある中津の町」を紹介して欲しいと思います。
S(サンシン)著
(1)「天守閣」
(2)「薬研(やげん)堀」
(3)「上段・下段」
(4)「御花畑」
(5)「三斉池」
(6)「黒田と細川の石垣」
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