かわらばん
毎月お楽しみに。
「郷土史講座 №7(中津城の見所)」
2007-04-01
昨年の12月、1ヶ月間「FMなかつ」の「Let‘s know ふるさと(毎週土曜日 am9:00~am10:00)」に郷土史の話で出演することになりました。今回は第1回目(12月2日)の時、前半で話した「中津城の見所」の原稿をもとに書きたいと思います。
本題に入る前に「中津藩」の素晴らしい所・興味を引くところを列挙してみますと、
1.九州で大大名と呼ばれた福岡城の黒田、熊本城の細川が中津から転封(てんぽう)していった。
2.幕末の頃、中津は大分県下第1の大市街地であった。
1位 中津10万石、 2位 岡(竹田市)7万石、 3位 臼杵5万
4位 日出2.5万石、 5位 府内(大分市)2.1万石、 6位 佐伯2万石
3.明治4年の廃藩置県後、中津藩は、
明治4年7月「中津県」
明治4年11月「小倉県」-下毛郡、宇佐郡とともに新設の小倉県に編入(当時全国で3府73県)
明治9年4月「福岡県」-小倉県廃止に伴う
明治9年8月「大分県」と変遷し、最終的に大分県に落ち着きました。
1.九州で大大名と呼ばれた福岡城の黒田、熊本城の細川が中津から転封(てんぽう)していった。
2.幕末の頃、中津は大分県下第1の大市街地であった。
1位 中津10万石、 2位 岡(竹田市)7万石、 3位 臼杵5万
4位 日出2.5万石、 5位 府内(大分市)2.1万石、 6位 佐伯2万石
3.明治4年の廃藩置県後、中津藩は、
明治4年7月「中津県」
明治4年11月「小倉県」-下毛郡、宇佐郡とともに新設の小倉県に編入(当時全国で3府73県)
明治9年4月「福岡県」-小倉県廃止に伴う
明治9年8月「大分県」と変遷し、最終的に大分県に落ち着きました。
『中津城の見所』
天守閣に登るだけでなく、城の周りを歩いてみると、たくさんのおもしろいことを発見します。
(1)「天守閣」
現在の天守閣は昭和39年に建設されましたが、中津城に天守閣があったかどうかについては議論されます。元々、中津城には天守閣がなかったという説と元和6年(1620)細川忠興が中津城を隠居城にするために天守閣を取り除いたという説があります。
現在の天守閣は昭和39年に建設されましたが、中津城に天守閣があったかどうかについては議論されます。元々、中津城には天守閣がなかったという説と元和6年(1620)細川忠興が中津城を隠居城にするために天守閣を取り除いたという説があります。
(2)「薬研(やげん)堀」
薬研とは、漢方の薬をすりつぶしていた器具のことで、V字形になった底の堀を呼びます。他には底が方形の「箱堀」、底が丸い「毛抜堀」等があります。よく堀を見てみると、祇園車の車輪を堀の底に沈めています。
(3)「上段・下段」
「下段」は現在の公園地で駐車場になっていますが、当時は城内の仕事場=政庁でした。「上段」は現在の天守閣のある所で公園地より1段高く、当時は主に藩主の住居がありました。
(4)「御花畑」
昭和30年代後半(?)だったと思いますが、遊園地がありました。
プール、観覧車、ゴーカート等があり、小学生だった私も時々プールに泳ぎに行っていました。当時は薬草を植えていました。
(5)「三斉池」
細川忠興(剃髪して三斉)が造った池、城内の防火用水として使用されていました。
(6)「黒田と細川の石垣」
天守閣の北側(中津城会館の前、向かって右側が黒田孝高、左側が細川忠興の石垣、黒田と細川の積み方の違いが見て取れます。黒田時代の石は四角く、川向こうの唐原遺跡(7世紀)の石を川を伝って運んだものと言われています。
(7)「南側の大鳥居横の石垣」
教育委員会が現在、石垣の積みかえ工事中、黒田の時代と細川の時代の石垣の幅、高さの違いが見て取れます。
歴史民俗資料館から公園地までの道路は明治4年に造られ、そのとき石垣を壊し、大鳥居を建てました。
(8)「生田門」
三の丸(現三ノ丁)には奥平七族と上級家老生田四郎兵衛の屋敷門です
(9)「8門」と「22櫓(やぐら)」
1.北門 北門橋の近く
2.樫ノ木門 北門を少し南に入った所
3.椎ノ木門 裁判所より西の鳥居をくぐった右側
4.黒門 裁判所南側、礎石が残っている
5.大手門 南部幼稚園の砂場、黒田如水、犬丸城の古材木
6.西門 汐湯の前の道を南に行った所
7.水門 汐湯の前
8.鉄門 中津川への出口、昔は通れたが現在は塞いでいる
※22櫓 本丸に15櫓、二の丸に4櫓、三の丸に3櫓、合計22の櫓があった武器や道具類を収めていた
最後になりましたが、友達が中津に遊びに来た時、親戚が中津に寄った時、「歴史のある中津の町」を紹介して欲しいと思います。
S(サンシン)著
「郷土史講座 №7(中津城の見所)」
2007-04-01
「郷土史講座 №7(中津城の見所)」
2007-04-01
心とココロの架け橋~イ・スヒョンからのメッセージ~
2007-03-01
2001年1月26日、東京・新大久保駅で起きた列車死亡事故のことをみなさんはまだ覚えていますか?
雪の舞う新大久保駅で、酔っ払ってホームから転落した日本人を助けようと韓国人留学生・李秀賢(イ・スヒョン)さんと、日本人の関根史郎さんの二人がホームから降り、助けようとするものの、叶わず、犠牲になった悲惨な事故です。
この事故の犠牲のひとりである、韓国人留学生 スヒョンさんのことは日韓それぞれのテレビや雑誌が取り上げ、さまざまな角度からこの事故のことを報道してきました。
あれから6年。
イ・スヒョンさんの26年という短い半生を描いた、日韓合作映画『あなたを忘れない』が2007年1月下旬から公開された。
スヒョンさんは、家族思いで優しく、音楽とスポーツが大好きな、正義感の強い青年。
兵役を終え、大学に戻ったスヒョンさんは、大学の日本語の講義がきっかけで、日本の歌謡曲に興味を持ち、また、在日だった祖父から続く日本との縁を知り、日本への留学を決意し、来日した。
日本でのさまざまな人との出会い、そして、日本人女性との恋・・・。そうした毎日の生活の中で、韓国と日本の「ココロの壁」に直面し、悩み、彼が好きになった日本と、祖国・韓国を、スポーツと音楽を通して結びたい、という目標を持っていたそうだ。
どれだけの人が、どれだけの日本人が、そのような勇敢な行動ができるだろう?
たとえ見えていても「見ないフリ」をしている。
たいていの人は、電車が近づいてくるホームに転落している人を助けようなんて行動に出ることはしないでしょう。
たいていの人は、電車が近づいてくるホームに転落している人を助けようなんて行動に出ることはしないでしょう。
それは、他人事ではない
私もその一人である。
この映画では描かれていないが、スヒョンさんと共に救出しようとし、犠牲になった関根史郎さんも、数少ない勇敢な人物である。
スヒョンさん、関根さんのしたことは、決して特別なことではないはずです。
「人として」当たり前のことをしただけであり、日本人だから、韓国人だから、なんて、関係なく、どうでもいい。
彼等の命を賭けたこの勇敢な行動を、私たちは見習わなくてはいけないと気付かされる映画でした。
私は、2002年のW杯の直後、そう、スヒョンさん達が亡くなってまもなく、韓国語を習い始めた。
最近の「韓流ブーム」の前である。
週1程度の授業だけでは、なかなか上達することもなく、4年が過ぎた今も、ネイティブ・コリアンとの実践的な会話ではまだまだ戸惑ってばかりだ。
韓国語を習い始め、私は韓国の文化や歴史、料理などに興味を持ち始めた。このように私たちのような若年世代から、この映画のような芸能文化を通じ、交流を深め、理解しあえたら素敵なことだ。
宇佐支店 C.K
桜
2007-02-01
十二月中旬、朝6時 外はまだ暗い ごみ袋と箒と塵取を持って外に出る。
月はまだ西の空に残っている、電柱にある街路灯の明かりで落ち葉をはく。向こう3軒両隣。今年の落ち葉もそろそろ終わりだな。
この家に住み始めた時、1本の桜の木を植えた、小指よりも細く、1メートルに満たない小さな“そめいよしの” 1年目、葉の数が十と少し、秋にはあっさりと散ってしまいました。次の春、桜の花が咲きました。桜の木にも花にも触るのは禁止。記念撮影です、少しでも花に近付きたいから、伸び上がる児、木の下にしゃがむ子、唇を伸ばす者。ニコニコする人、あれから30数年。
八月のお盆を過ぎたら落ち葉はきの始まりです、毎朝ごみ袋と箒と塵取を持って家の前の道を掃きます、八月はほんの10分で済みます、九月に入ると20分、十・十一月は30・40分程もかかります十二月は10分かな。出勤の時間と落ち葉の量で、朝起きの時間が変わります。
この時に人に会うのは稀です、新聞配達と牛乳屋さんはほとんど終わっていますし、まだ出勤の人もなく、ときおり早朝ウオーキングの人が通ります、「おはようございます」とお互いに一言。木から離れたばかりの桜の葉っぱは絵に描きたくなる色です、放って置くとタダの茶色の汚い枯葉になります。だから綺麗なうちにはき清めます。
一月、二月、三月、毎日桜を見上げるだけ。そして、蕾が確認でき、それが少しづつ、ふくらんで、そしてまた、その蕾みに桜色を感じ、桜の木の周りの空気まで桜色に見えだしたら、待ちに待った、桜が、咲き始めます。下の方から、少しづつ、少しづつ上に昇っていきます、そして満開、桜の木も歳をとります。ほんの数年前から下の方にある枝の先が幹から分かれた位置よりも低くなってきたのです。たしかに、それまでは、枝はいつも上へ、上へと伸びていきました。
枝の先を上へ伸ばして天までも届こうとばかりに成長している桜の木は 幹には艶がありましたし、青年のように弾けるような若さと、朗らかで、清らかな明るさを回り一面に降り注いでくれました。そして今、桜は横に広がりを見せ、力強くゆったりとした風格を見せ始めました。幹にも割れ目が入り、こぶができはじめました。
桜の花の下では、何をしても楽しいものです。皆で焼肉パーティでビールをぐいぐいやるのも良し、おばさんたちと、女学生に戻って、桜メドレーを歌うのも良し。1人、月明かりで日本酒をのむのも、これがまた格別にいい。こういう時です、西行法師の気持ちに成りきってしまいます。
“願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ ”
ネー桜よ!!願いをきいておくれと、何度言ったことか。
ネー桜よ!!願いをきいておくれと、何度言ったことか。
桜の花も散ります。桜の花びらのじゅうたんの美しさも心に染みます。この美しさは1日のみ。2日ほっておくと老醜を感じだします、“花の色は移りにけりないたずらに・・・・・”です。
だから、桜が散り始めたら、また毎朝、箒と塵取りをもって前日に散った花びらは全て撤去。
その日に散った桜でうめた道のきれいなこと、息を詰めて、出る言葉が無いほどです。歩くのを逡巡します
桜の花びらを掃き終わり、その後の花の軸が散ってしまったら、緑の葉が出てきます。一面葉でおおわれたら季節も夏、桜の葉は、虫たちにも美味しいらしく色んな虫がつきます。この葉を大事にすることで、次の年の花もきれいに咲いてくれる、と信じていますので、虫たちに、ご自由に召し上がれというわけにはいきません、夏はセッセと虫退治です。
そして、また秋、落ち葉、掃きがはじまるのです。
大家桂子