本文へ移動
株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
RSS(別ウィンドウで開きます) 

「あの惨劇は昨日の事のようで、生涯忘れることはない」

2006-07-01
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年) 6月29日朝、沖縄の守備要員として沖縄に向って航行中の輸送船「富山丸」は、徳之島町亀徳沖で米軍潜水艦から発射された三発の魚雷により撃沈され、約3700余名が犠牲となった。この大惨劇の目撃者や負傷者の救護、遺体収容に当たった住民の代表と私達富山丸遺族会で「富山丸を語る集い」を 4月23日亀徳の「なごみの岬公園」の慰霊碑の前で行った。
 
今回は戦後62年になるが初めての試みとして遺族側が要望、徳之島町が主催した。
 
地元の生き証人の代表は当時13歳~17歳の尋常高等小などの生徒だった、同町亀津の永吉さん(91才) 牧さん(78才)、同町亀徳の 富さん(75才) 秋丸さん(74才)の4人。真夏を告げるように群青色に輝く海で62年前に起きた地獄絵について口を開いた。
 
◎吉永さんは当時について「毎日のように船団が南下、その日は船団(計12隻)が多くて気になっていた、駆逐艦のほか空には飛行機も1機飛んでいた、そのとき突然、汽笛を鳴らし始めながら船団が崩れた、その直後、富山丸は ノコギリで切られたようにちぎれ、1 分も経たないうちに沈んだ。
 
語る集い『生き証人の住民と遺族会』
 
◎勤労作業中だった牧さんは、教師に「日本の船団が威風堂々と南下しているのでよく見なさい」と言われ船団を眺めた、そのとき、迫力のある汽笛が三回ぐらいなり、不思議に思った直後魚雷攻撃で分断された「富山丸」は 「すーっと立ち上がって沈み、その横では水晶のような水柱。海上ではドラム缶が次々と爆発炎上、一面火の海となった」。
 
◎富さんは 住民と共に負傷者の救護や、遺体の収容に奔走した一人 「突然の汽笛に続いて ドーンと轟音が響き、船が沈んでいくのが見えた。焼け焦げた兵隊さんたちが運ばれ、手をつかんだらズルッとずれた。全身を焼かれて両眼が飛び出した人、今でも涙が出ます」 おびただしい遺体を海岸で火葬したことにもふれ 「戦争は二度としてはいけない」。
 
◎同様に陸上で救護に当たった秋丸さんも「父が救助の漁船を出したが中には、自分より隊長を助けて語る若い兵隊さんもいた」などと証言。遺族ともども涙につつまれた。私ども遺族会との質疑の中で 永吉さんは、3700余名もの将兵、乗組員が船と共に運命を供にし、海上の火炎地獄の犠牲になった点で 「戦闘準備をしたまま足にはゲートルを巻き、救命道具を着けていなかったら半分は生き残っていたと思う」さらに 『救助された負傷者も手を着けられずに死んでいった。なぜ軍医がいなかったのか不思議でならない』とも話した。
 
席上では、勝重蔵町長が、当時亀津郵便局長だった父が 「富山丸の悲劇」について書き残した日記も紹介。また住民を挙げての救助活動や慰霊祭に 球第一六一六部隊長の牛島満陸軍中将が軍機密文書として託していた「お礼状」も朗読紹介された。
 
私は 富山丸の最期をしっかりと見た人達の話を聞けて本当に良かった。今日の日本の平和はこのような幾多の苦難を乗り越え国際社会においても重要な地位を締めるに至った陰には多くの方々の尊い犠牲があったことを決して忘れてはならないそして私達遺児が先頭に立つてこの悲惨な出来事を子供や孫に伝え後世に英霊の方々の心を語り継ぐことが責務であると思っています。
 
大豊道路 羽立征雄

WBC

2006-06-01
今年は野球の WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が開催され、野球好きな私としては大いに楽しむことが出来た。
 
12球団を代表するプロの選手達が、一流選手としてのプライドや名誉を懸け戦う姿は、通常のペナントレースにはない迫力を感じた。また、短期決戦でその緊張感も一層増したように思う。
 
国別対抗戦なので、アメリカ・キューバを筆頭に世界の強豪と日本がどこまでやるか、日本のレベルを知る上でも興味があった。
 
日本のトップレベルの野茂投手・イチロー選手は、アメリカでもトップレベルの実力を証明しているし、その他の選手も多くがメジャーリーガーとして活躍をし、その実力を認められている。
 
アメリカ・キューバに対してどこまでやれるか----- まあ過去のオリンピック等の国際試合を見ても精々3位・良くて2位くらいかと勝手に思っていた。
 
しかし、その結果はあのチームにここまで苦戦をし、そして最後は運も実力の内を、見事に証明し栄冠を勝ち取ったのだ。
 
あのチーム「韓国」今回の戦いでもっとも印象に残りそして強かった。
 
野球の歴史からして、日本のトッププロの戦いになれば、まだ日本選手の方が個々の技術は勝っていると思うが、勝ちたいと願う気持ち、相手を倒したいと思う執念は韓国チームの方が上回っていたのではないかと思う。
 
アジア予選から本大会の一次予選で二度も負けて、アメリカのまさかの敗戦で準決勝へ進み、そこでまた、三度目の激闘を演じた。
 
日本の選手は二度の敗戦で韓国チームの執念を知り、三度目にその執念に勝った。技術より心の戦いではなかったか。
 
予選をトップ(全勝)で通過して、準決勝で予選と同じ組の日本に負け、決勝に進出できなかった韓国には気の毒な気がしてならない。
 
「野球とは全然関係ないが、今の日本と韓国は領土並びに靖国神社等の政治的な問題でギクシャクしているし、韓国からのニュースは日本人に敵対している場面が多く報道されている。個人的には韓国という国はあまり好きではない。」
 
しかし、スポーツは違う。韓国チーム金監督の最後のコメントは、スポーツマンとして、指導者として本当に素晴らしいと思う。金監督は「日本は今大会で最も組織立っているチームで、チームの質もわれわれより上だ」とコメントしている。
 
謙虚な姿勢を崩さず相手の勝利を称える。監督として人間としての大きさを感じた。
 
決して大リーグが野球の頂点ではない。アジアのそして日本の隣に、こんなに強いチームがある。
 
次回の韓国戦を楽しみにしたい。
 
K.O

『郷土史講座 №5(惣町大帳)』

2006-05-01
奥平氏が享保2年(1717)中津に入府後、中津町14町は6つの組に分けられました。享保3年(1718)6月21日、各組より一人が町年寄に任命され、「交代で月番を勤め、毎月6回『町会所』に集まって町の諸事を相談して決めよ」とのお触れがでました。当時の「6つの組」の組名・町名・町年寄りをまとめますと次のようになります。
 
  組名 町名 町年寄
新博多町組 新博多町・新魚町 亀屋惣左衛門
古博多町組 古博多町・米町・姫路町 玉屋与右衛門
京町組 京町・諸町 はりまや半七
古魚町組 古魚町・船町・塩町 美のや六右衛門
桜町組 桜町・豊後町 播磨屋吉右衛門
堀川町組 堀川町・角木町 菊屋伝左衛門
 
町年寄が町会所に集まって決めた事の記録=『惣町大帳』です(写真①、②)。
 
明治維新の際、紙ホゴとして大阪方面に船積みされようとしていたものを当時の豪商 播磨屋(京町)小畑利四郎が買い戻し現在に至り、中津市立小幡記念図書館に110冊が所蔵されています。私も原本を一度しか見たことがありません。
 
去年の6月の事、中津地方文化財協議会会長の中尾先生より鄭重な手紙を頂きました。
 
内容は今度「惣町大帳解読実行委員会」を設立して、まだ翻訳製本されていない残りの分を市民の有志で翻訳製本しようという手紙でした。
 
古文書を始めてまだ4・5年の私にとって到底出来る仕事ではないと思い早速、先生の家にお断りに訪問しましたが、先生の熱意に負け結局お受けする事にしました。
 
私の担当は天保11年(1840)の1年間分を、1年間で解読・パソコン入力をすることです。
 
今も時間を見つけては難解な字に苦戦しながらも、いつの日か私の解読した惣町大帳が世に出ることを楽しみに毎日パソコンのキーボードをコツコツとたたいています。
 
S(サンシン)著
惣町大帳①

中国をかじる

2006-04-01
私も三信建材社に入社し今年で30年を迎えることになる。
 
定年まで後〇年になり、老後のことを考える齢となってきたが、退職金・年金で老後を過ごす構図が最近大きく崩れてきている。国の借金は700とも800兆円とも言われており、いつ破綻するか分からない状況に陥っている。せめてもの貯金はゼロ金利、量的緩和は解除されたが秋以降上がっても0.25%であろう。
 
このような状況の中、“自分の年金は自分で作る時代”“日本型401k”・・等と言われても私のような凡人ではどうすれば良いのかわからない。ようするに今まではリスクヘッジをしていれば良かったが、これからはリスクテイクで自分の資産は自分で作らなければならない時代だと自分なりに解釈した。今まで自分自身の資産を増やすことなど考えたこともなく、平々凡々と過ごしてきた付けが回ってきた。
 
僅かな資産を増やすにはどうすれば良いか、株・ファンド・外国為替等色々調べたが、その中で目についたのが中国株である。日本株のように売ったり・買ったりしなくて良いし、10年の定期預金と思ってじーと持っていれば良いとある本に書いてあった(信じた私がばかなのか?)。日本株は歴史も古くプロが沢山いる世界では私のようなシロウトが儲けられるはずもなく、その点中国株は歴史が浅く個人投資家がほとんどで、変なだましも無いであろうと思い数点買ってみた。
 
しかし、株の上がり下がりで一喜一憂するのではなく中国経済を調べて見ると大変面白い、人口13億人、面積日本の25倍、GDP8%(全人代今年度目標)、白物家電生産量世界1位、携帯電話契約数3億世界1位、自動車生産量世界4位、高速道路距離世界2位、ビール消費量世界1位......等、この国は新興国でありまだまだ大きく伸びる可能性を秘めている。日本の高度成長時代とよく比較されるが、13億人のマーケットは日本の高度成長の比ではないように思われる。
 
ペトロチャイナという会社ご存知ですか、世界の大富豪ウォーレン・バフェットが株を持っていることでも有名であるが、ここの会社の2005年の決算では純利益が133362.00百万元(3月31日の為替レート14.69円)で日本円に直すと、なんと1兆9590億円、あのTOYOTAよりも利益が多いではないか。このような会社がGDP8~9%の追い風に乗って今後どんどん出てくるであろうことが想定される。 また、あっと驚いたのは、IBMのパソコン部門をレノボが買い取ったことである。中国は外貨準備高が今年(2006年)日本を抜き世界一になると言われているが、この外貨はどこに行くのだろうか。今後は世界中の会社を買い漁り中国人にこき使われる時代が目の前である(反日感情が強いので使われかたも半端じゃない可能性が?恐ろしい)。
 
中国政府もしたたかである。数年前より米国が元の切り上げを迫ったが、聞き入れずに引き伸ばしてきた。昨年7月に意表をついて通貨バスケット制に移行したが切り上げはたったの2%。円は危ないので外貨を持てと言われ出したので、中国の資産を持とう、元は10%以上切り上げられると考えたのであるががっかり!。まあ、最近少しずつ元高になってきているので10%以上にはなるであろう。
 
肝心の中国株は2004・5年と加熱経済引き締めのため株価が低迷していたが、今年に入り高騰している。昨年からアジア株(日本・韓国)が好調であったが、中国株だけ出遅れていたのが一気に噴出した感じである。マネーは回遊魚のように世界中を回っている、出遅れた所を見つけるとそこにマネーは集まる。
 
中国4000年の歴史と言われますが、新興の中国を調べるのも楽しいですよ、やってみませんか?
 
生産本部
Y.M

城巡り

2006-03-01
私は日本の城が好きです。
 
それは単なる懐古趣味からではなく、城の姿の美しさにひたすら魅かれるからです。私が城に魅かれ始めたのは中津から東京の実家に帰省する際、小倉~東京間を往復する新幹線の窓から見える姫路城の美しさ、雄姿を何度も眺めていた7~8年程前からです。
 
同時期に東京から来た友人を中津城に案内するため、度々訪れた際、城の美しさに感動したことも城に魅かれた要因です。それ以来、いろいろな城の本を読み漁りました。日本人と城は切っても切れない関係にあるのではないかと思われる程、城は全国各地に散在して大切に保存されています。
 
日本の城は伝統的な日本建築の中でも特に究極の建築美と威容を備えた建物と言えます。
 
ある大手の出版社の本によれば、歴史上特に有名な城又は城跡は全国に140ヶ所余あります。私の最初の城巡りは九州にある城からスタートしました。休みの度に城巡りを楽しんでいました。現在まで九州と四国の23ヶ所の城を訪れました。築城以来一度も戦火を受けず天守が現存している城は全国に12ヶ所あります。
 
犬山城(国宝-愛知県)、丸岡城(国宝-福井県)、松本城(国宝-長野県)、彦根城(国宝-滋賀県)、姫路城(国宝・世界遺産に登録-兵庫県)、松江城(島根県)弘前城(青森県)、備中松山城(岡山県)、高知城(高知県)、伊予松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、丸亀城(香川県)
 
残念ながら九州には1ヶ所もありませんが、熊本城にある宇土櫓は現存のものです。私はこのうち高知城、伊予松山城、宇和島城の3ヶ所を訪れましたが、復元された城と違い歴史の重みを感じます。城が素晴らしいと思うのは、城は自然と人との調和から生まれているということです。城を築く時にも、自然の一部を壊すのですが、今の開発の様に山を無茶苦茶に取り崩してはいません。常に自然との調和を考えて建てられていることが分かります。城は山や谷の形や勾配、川の流れを生かしながら築かれていますので、その土地の風景に溶け込んだ美しさを備えているのです。
 
また、城は戦いを想定して防御のために技術の粋を結集して様々な仕掛けが仕組まれています。例えば、熊本城の石垣は見上げればなだらかな勾配で簡単によじ登れそうですが、上に行くほど急な垂直となっていて、引き返すにも引き返せず転げ落ちるほかない様に築かれています。これは「武者返し」と言い、加藤清正の編み出した独自の石積み手法です。
熊本城が難攻不落の城と言われた要因の一つはこの石垣にあります。
 
私は城を訪れると1~2時間があっという間に過ぎてしまいます。城の均整の取れた美しさ、逞しさや石垣の曲線の美しさを見ていると昔の人達の技術の高さに感心して夢中になってしまうからです。
 
未だ、コンピュータの無い時代に複雑な計算をどうやって考え出したのかと思うと昔の人の頭脳に驚くほかありません。私はコンクリートで復元された城よりも石垣だけ、堀だけでも残された城跡(又は城址)の方が好きです。特に竹田市の岡城址の石垣は、ため息をつく程の曲線の美しさと威容さを兼ね備えています。
やはり、城は日本人の心の故郷です。日本人なら誰もが持っている懐かしい心情ではないかと思っています。
 
東京に帰省してからは、仕事から開放された人生を楽しもうと思っていますが、その一つが城巡りです。未だ訪れていない全国各地の100ヶ所余の城及び城址をゆっくりと訪れるのを楽しみにしています。
 
大石武徳
 
TOPへ戻る