本文へ移動
株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
毎月お楽しみに。
RSS(別ウィンドウで開きます) 

建材屋のおっさん(36歳、妻1人、子1人)のマイホーム論(まだ進化中)

2004-08-01
この仕事に携わり、はや14年。建築資材の商社として工務店さん、大工さん、ゼネコンさんを主なお客さまとして、建築・土木資材の商いをさせていただいてきました。今回、会社HPへ文章を書いていいということで、日頃気になっていることをすこし書いてみようと思います。
 
まず、当社はPC瓦(プレスセメント瓦)のメーカーでもあり、また石州瓦、三州瓦も仕入れて販売、施工もしております。
当然心情として、仕入れ販売している瓦より、当社製造の瓦を売りたい!
しかし、九州の北部ではまず、瓦を取り巻く状況として、
 
  1.  日本人はみなそうでしょうが、陶器の製品とセメント製品どちらが身体に優しいか、イメージが良いか、とい うと間違いなく陶器の品物を選ぶでしょう。そういう伝統・歴史があります。    
  2.  戦後の復興期、九州ではセメント瓦メーカーが乱立し、間違いなく低コストのセメント瓦が復興を支え、当時の陶器瓦は製造コスト、輸送コストも高く、また焼き物なので、反り、ひねりがあり、施工に技術と時間がかかり施工コストも高く、高級品であった。その陶器瓦は現在、産地内の協同制作等を実施し、トンネル窯による大量生産で寸法精度もあがり、コストも非常に下がっていますし、特に九州はだぶついた在庫の処分で他地域より安い単価で取引されます(大量生産で釜は止められないのですが、やはり地元、そして大規模消費地での単価はくずしたくないのですね)。つまり、昔は高嶺の花だった品物が、普及品とそんなに変わらない金額で手に入るのです(この感覚は年齢が高いほど強い傾向が・・・)。
  3. そして、特に九州北部については、北海道で瓦屋根があまり見られない理由である寒割れ(陶器瓦は若干吸水します。この水分が凍結と融解を繰り返すと瓦が割れ、雨漏りの原因となります。)が起こるほど気候が厳しくないのです。プレスセメント瓦の優位性を発揮出来ないのです。    
と、取り巻く状況を書いてきたわけですが、ここまで書いてプレスセメント瓦が良い品物ですよ、と続けて書くつもりではないのです。
 
家を建てるって一生に何度もできるものではないと思います。2度3度と建てて、前回の気に入らないところをなおしながら最終的に満足する家を建てる幸せな人もいるかもしれませんが、ほとんどの人が一生に一回、頑張って建てるものではないでしょうか?
 
当然、それぞれ予算があってその範囲で最良のものを目指す訳です。
 
そして、その予算の使い方ですが、最近は奥様の発言や決定権が非常に強く、キッチンや、お風呂・トイレの水回り、そして内装へ比重をかけます。この辺はちょっとグレードを上げると、すぐ300~500万円かかります。さて、ここで予算オーバーしない幸せな家庭はいいのですが、もし予算をオーバーするとどこかを削らなければなりません。どこをけずりますか? まず、見えないところ、そして普段ふれないところは最低限の予算にしようとします。そう、瓦も先ず一番にその対象になるのです。
 
陶器の瓦もプレスセメント瓦もそれぞれ長所と短所があります、それを分かっていただいた上で、自分で選んでいただけるなら何も言うつもりはありません。
 
ここから、本題! 家っていうのは耐久消費財と分類されるものですが、本当に消費財なのでしょうか? 25年から30年、ローンが終わるまで持てばいい品物なのでしょうか? 子や孫へ渡すうんぬんは今の時代はやらないことかもしれません。ここからは正解もなにも無い、個人の意見ですのでそのつもりで。
 
私の祖父は建材屋を立ち上げたのですが、その一生で家を一度も建てませんでした。築40数年の家を買い、家族の構成にあわせてリフォームを何度かしながら、その家で50数年くらし、その家で息を引き取りました。その家は築100年を過ぎても特にぼろぼろでもなく、普通に暮らせます。
こういうやり方が良いのか悪いのか、合っているのか合っていないのかは生活のしかた、家族の構成でも意見が分かれるところだと思います。
 
もし、こういう家を建ててみようと思っていただけるなら、基礎と構造と壁と屋根にもう少し予算を回してみませんか? 基本がしっかりしてさえいれば、そのときの家族構成に、生活のスタイルに合わせてリフォームしながら家と付き合えると思います。
 
㈱三信建材社
大家 覚   

方言は言葉の財産

2004-07-01
仕事柄、いろいろな人と接する機会が多く、その土地によって様々な方言を聞くことがあります。私の住む中津市は大分県の北部になりますが、隣りの宇佐市や、豊後高田市といった近いところでも微妙に方言が違います。昨今はテレビ、ラジオなどの影響で標準語が主体となり、子供たちも方言を知る機会が少なくなっているようです。
 
大分のOBS放送のアナウンサーで松井督治さんとおっしゃる方がおられますが、番組に大分県の方言を取り入れ大変ユニークな放送をされています。そして、その番組のテーマをそのまま本にされ、大変好評だそうです。
 
先日ある病院の待合室でふと耳にした、二人のお年寄りの会話を文章にしてみました。
 
A    「よう!久しぶっじゃなあー、さかしかったかえー」    
B    「あぁ~どげかこげかなぁー」「今日はまたどげしたんかえー」    
A    「そりがなー小便(しょんべん)すっと痛てぃもんじゃき、先生に診てもろうたら石が溜まっちょっち言われたでぇー」    
B    「ぼっ!、そらおおごっじゃねぇかえー」    
A    「そらそうと、あんたはどげーしたんかえー」    
B    「ワシかぇー、前立腺肥大じゃら」    
A    「ほんな手術すんのんかえー」    
B    「うんにゃ、手術はせんでんいいごたるでー、当分、薬と注射でいいごたる」    
A    「そらーよかったなー。そらそうと、浜ん、松本さんが最近まで、こき入院しちょったらしいでー」    
B    そうかえー、そいで最近見らんかったんじゃなぁー」「なんで、入院しちょったんかぇー」    
A    「なんでんが、前立腺を切ったち、いいよったでぇ」    
B    「そうかえー、あんしはワシより七つ下じゃき65じゃなー」    
A    「ワシらももう年じゃき、こりから先どげな病気にかかっかわからんでー、お互い気を付けななぁー」    
B    「そうじゃなー、まぁお互いさかしゅうしょうえー、ほなワシぁーいぬっきな」    
A    「はい、さいなら」    

この二人は中津市のとなり、宇佐市長洲の人たちでした。お二人の会話は早口で聞きづらいところもありましたが、皆さんはいかがでしょうか。    

方言は貴重な言葉の財産だと思います。お二人の会話を聞いていて何となく“ほんのり”とした気分になりました。    
三信管工㈱
成重敏昭

出会いは感動、心の財産

2004-06-01
昭和19年、太平洋戦争末期に沖縄守備要員として将兵約4000名を乗せた輸送船「富山丸」は、6月29日徳之島沖を航行中に米潜水艦の3 発の魚雷攻撃を受け爆発、炎上し3700名余りの将兵が無念の涙をのんで散華した。この中に私の父がいた、当時父は35歳で私はまだ3歳でした。悲しいかな私は「とおちゃん」と呼んだ記憶はない。父も妻子、両親を残してどんなにか無念だったことだろう。早いもので今年は没60年です。この間に私は数多くの方々との出会いがあった、その出会いの一面をのべてみたい。
 
最初は、新日本製鐵(当時八幡製鐵所)に入社した時の下神上司との出会いであった。下神さんは、社会人として全く無知な私に会社とは、組織とは、この中でいかにあるべきか、人間形成を教えてくれた。私はこの教えを忠実に実行したと思っている。私の息子が社会人となった時このことを息子に自信を持って教えた。
 
2度目は、入社15年後になるが佐々木工場長(後の堺製鐵所副所長を経て大阪エンジニアリング㈱社長)との出会いであった。佐々木さんは、仕事の進め方、管理者の仕事は常に先を読むこと、また今自分は何をしなければいけないか考え実行することである、と教えられた。今でも忘れられないエピソードがある。それは管理者に昇進のレポート作成の時、何回書き直しても受け取ってもらえない、悪いところを教えてもらえない、結局8 回書き直した、やっとOKをもらったのは確かイタリアに出張する前日のタイムリミットではなかったかと記憶している。いずれにせよ、あの時の愛のムチ?のおかげで今日の私があると感謝している。息子の結婚式にも大阪より出席して下さった。現在も家族ぐるみで付き合いをさせてもらっている人である。
 
3度目は、私が50歳で出向した松本工業㈱の松本会長(当時副会長)との出会いであった、氏には人生哲学を教わり、中小企業の中での仕事の厳しさを教えられた。経営者と従業員の関係を超えて、親父の存在を知らない私には父親願望と上司との二役のスケールの大きな存在感のある氏であった。特に私の定年退職の日には思ってもみなかった過去に例のないセレモニーをしていただき、この時のビデオテープは私の宝物として大事に保存している。
 
4度目は、富山丸遺族会との出会いであった、昭和44年6月に私は戦死した親父に会った。と言うのは、富山丸が沈没した亀徳沖(北緯27度43 分、東経129度6分)での海上慰霊祭に参列した時のことである、私は我を忘れ「とおちゃん」と大声で叫んだ海が忘れられない、今もこれを書きながら涙がボロボロ落ちている、昭和40年に発足した遺族会のおかげで、全国各地の方々とも素晴らしい出会いと、かたい絆が出来た、それゆえに、私はおやじの戦死を誇りに思っている。今年も41回目の慰霊祭が6 月29日現地で行われるが、私も大分県の会長として、県内30余名の遺族と共におやじに会いに行く予定である。年々会のお母さん方は少なくなっている現在、私達遺児が戦争の悲惨さを後世に伝えるべく、私は3 年前に大分県の会長を引き受け、会の存続の為に頑張っていくところである。
 
最後の出会いは、影木社長(現在中津市教育長)との出会いである。社長とは、10 年前より趣味の会で色々とお世話になっていましたが、3年前のある日、大豊道路㈱で仕事をしてみないかと声をかけられた、正直言って60歳を超えた自分に何が出来るかと考えたが私の人生最後の仕事と思い、三信グループの一員として仕事をさせてもらうことを決断した。今はあせる気持を押さえながら早や3年が過ぎようとしている、現在は多少の不安もあるが充実感いっぱいの毎日です。
 
今日の出会いは明日の友として残された人生を楽しく一日一日を大切に生きたいと思っています。

平成16年6月1日
大豊道路株式会社
羽立征雄

書と私

2004-05-01
私は玖珠町の小さな山村の出身ですが、地元の高校を卒業するまで、祖父を手習いの師として書を学んできました。しかし、大学受験のため上京してからの33年間の東京生活は、多忙で好きな書を殆んど勉強することができませんでした。
 
平成5年7月に縁あって㈱三信建材社に入社しましたが、㈱三信建材社は東京で勤務していた外資系の会社に比べて自由に使える時間が相当に増えましたので、影木前社長に小倉汀城先生を紹介して頂き、書の勉強を本格的に始めました。
 
書の魅力は、正座して白い半紙に向かって筆を取ると精神統一ができ、全ての雑念を忘れて書に没頭できることです。書は瞬間の芸術とも言われています。その一瞬は後戻りもできません。その瞬時にその人の人格の全てが、出てしまいます。
 
書は手と筆で書いていますが、実際は、その人の心と感性で書いていると言うことを漸く悟りました。見る人に感動を与える書には、その人の高度な感性と心の豊かさが表現されているのです。
 
今、私の一番充実した時間は、中国の著名な書家“王羲之(オウギシ)”の草書『十七帖』を臨書(手本を見て書くこと)している時です。
私は、将来も書を趣味として続けますが、日々の練習で技を磨き、心の豊かさと感性を高める様努めて、感性に溢れた書を目指して今後共、精進する所存です。
 
平成16年5月1日
三信管工㈱
大石武徳   

有朋自遠方来、不亦楽乎 (ともありえんぽうよりきたる、またたのしからずや)

2004-04-01
還暦を過ぎると、昔の友人、知人に会う機会が多くなってきた。
四十年以上経ての再会であっても、直ぐ昔の間柄になれるのが嬉しい。
 
論語の「有朋自遠方来、不亦楽乎」は遠く離れたところにいる朋が、「同じ道について語り合う」為、思いがけず尋ねてくる。こんな楽しいことが他にあろうかと言う意味だそうである。
 
「同じ道について語り合う」ような高尚なことは、私は持ち合わせていない。
しかし、気の置けない人と、昔話をすることも、それはそれで楽しい。
 
晃先生      私の小学校時代の恩師である。
               その頃は、熱あり、情ある立派な先生が沢山いた。
               昨年、50年目にして開かれた小学校同級会に出席していただいたが、
               まだまだ若々しく元気なご様子である。
 
光君         昨年、再会できた。高校卒業以来である。
               長年会いたいと思っていた友達の一人であったので、話が尽きなかった。
               彼は、小学生時代餓鬼大将だったが、現在は加古川でプラスチックスの会社を経営している。
               故郷には両親も家もないので、なかなか帰る機会がないと言っていたが、
               また会える日をお互い楽しみにしている。
    
亮さん      50年前、まだ奄美大島が米国の統治下にあった頃、私達のクラスと奄美の小学校との間に
     文通があり、最初に私が手紙を頂いたのが亮さんである。
               昨年、同級生達と奄美を訪問したとき、初めてお会いできた。
               彼は島で染物の仕事をしている。話をして、その素朴な人柄が好きになった。
    
旺ちゃん   2月、私が永年勤務していた三信建材社の大家副社長に待望のお子さんが生まれた。
               飲んだ席で副社長に話を聞くと、本人結構親バカ振りを発揮している。
               どうも、嬉しくてたまらない様子である。
 
昭            私の名前である。自分の名前の由来は、子供の頃に大概親に聞くものだが、私にはその記憶が
     ない。昭和に生まれたから、多分付けた名前だろうと小さい時からそう信じこんでいる。
 
先日、私と家内との共通の友人二人が、九州に来たいと連絡があった。
年賀状だけの繋がりであったが、5月中旬ごろ30数年振りに会えそうである。
「有朋自遠方来、不亦楽乎」
 
ところで、晃、光、亮、旺、昭、全て(あきら)の名前である。これもご縁でしょうか。
 
A・N 記
TOPへ戻る