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 かわらばん

「郷土史講座 №9(中津 細川時代)」

2007-11-01
前回に引き続き「FMなかつ」で第3回目放送の時に話した「細川時代」の「織部灯籠」を中心に紹介したいと思います。
 
慶長5年(1600年)、細川忠興は「関ヶ原の戦い」で徳川家康に従った功績により丹後宮津(京都府)11万石から豊前1国(8郡)と豊後2郡(国東と速見)の32万石(1説では39万9千石)を与えられ転封してきました。
 
慶長7年(1602年)忠興は小倉城に移り、子忠利が中津城(写真①)を居城とします。
 
慶長9年(1604年)現在の「行橋市今井」から腕利きの漁師たちを現在の小祝に移住させました。最初は村の名前を小今井村とし、その後忠興は小今井村で酒宴の最中、姫が生まれた事から小今井村が子祝村となり、そして現在の小祝になりました。
 
「小今井 → 子祝 → 小祝」
 
元和元年(1615年)幕府から「1国1城令」が出ます。
 
細川氏は小倉が本城であったため、中津城を何とか残したいと考えます。
 
忠興は江戸にいた子の忠利に手紙を出し、老中と相談させ中津城の残置が認められ、1国に2つの城が許されました。
 
 元和6年(1620年)忠興は家督を忠利に譲り、隠居し「三斎」を名乗り、中津城を隠居城にするため、拡張・修理し、天守閣を取り除きました。
 
その後の小笠原・奥平時代には天守閣を造ることはありませんでしたので、本丸・二の丸・三の丸と8門(大手門他)・22櫓(やぐら)が出来たのも、この頃の細川時代です。(中津城には最初から天守閣がなかったという説もあります)。又、中津城内の飲料水を確保するため、三口から島田の水道口まで水路、城下は地下を石樋で流し中津城内に給水出来るように「上水道工事」が始まったのも、この頃の細川時代です。
                      
【織部灯籠】について
1.名前の由来
   城州西岡(山城国・京都府の南部)の城主「古田織部」が考案したと言われています。又、織部灯籠は別   名 キリシタン灯籠(かくれキリシタン礼拝用の石灯籠)と呼ばれ、特徴としては灯籠の下の方にマント   をまとった人物が浮き出ています。
 
2.なぜ中津に
   古田織部と千利休は茶道の友人、千利休と細川忠興は茶道の師弟関係になります。

   天正18年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りに触れ、切腹を命ぜられますが、
   中津に残っている織部灯籠は千利休が形見として忠興に贈ったものと言われています。
 
3.宗教(キリスト教)との係わり
   忠興・忠利父子は初め、キリスト教に理解を示していました。
 
   なかでも、忠興の妻「玉」(明智光秀の3女)は熱心なキリシタンで、
   洗礼名の「細川ガラシャ」は大変有名です。
 
 関ヶ原の戦いの時、ガラシャ夫人は石田光成が家康に従う大名の妻たちを人質にしようとしますが、人質となる のをこばみ、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世を残し、自害しました。
 
 元和6年(1620年)忠興はガラシャ夫人の冥福を祈るために城内二の丸(現、裁判所の位置)に「長福寺」を 建立します。中津に残る織部灯籠は「長福寺」へ奉納されたものと、言われています。現在、中津市には織部灯 籠が3基、自性寺(新魚町)、養寿寺(浦町)、井上邸(殿町)に残っています。寛永9年(1632年)熊本城の 加藤忠広(加藤清正の子)が幕府の御法度にふれ領地没収、国替えとなり、忠利は熊本54万石へ転封し、忠興は 八代城へ移って行きます。
           
S(サンシン)著
 
①中津城
②自性寺の織部灯篭
③養寿寺の織部灯篭
④井上邸の織部灯篭
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