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株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
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郷土史講座№10(上毛町・百留(ひゃくどみ)横穴墓群)

2008-03-01
1穴で1家族か?
3穴で1家族か?
死体から出る水を流した溝か?
出土した男性の歯

大豊道路㈱ 代表取締役就任のごあいさつ

2008-02-01
 今年、平成20年1月1日に大家桂子の後任として、私、大家 和が大豊道路㈱の代表取締役社長に就任しました。
 
 当社はおかげさまで創業36年。アスファルトの舗装を主たる業務としてまいりました。この間に自動車産業はめざましい発展を遂げました。トヨタ自動車は2兆円という途方もない営業利益を出していますし、全国の自動車保有台数は約2千万台から8千万台と4倍に膨れ上がっています。
 
確かに現在37歳の私が子供の頃、中津でお買い物といえば自転車に乗って行くものでした。母親の多くは、前に後ろに小さな子供を乗せ、大量の買い物袋をハンドルに提げて巧みに自転車を操っていたものです。しかし現在ではそういう光景を目にすることもほとんど無くなりました。今、中津では大きな駐車場がなければ商売が成り立たなくなりつつあるようです。
 
 自動車が増えれば、それにともない道路整備は不可欠ですので、当社を含め舗装業界も順調に業績を重ねてきました。今後も当面、道路舗装の需要は無くならないでしょう。しかしながら、国の借金が770兆円を超え、公共工事が激減するなか、土建業界は厳しい競争の時代に突入しています。
 
 当然、舗装屋は大豊道路だけではありません。数多くある同業者の中から選ばれるためにはどうするか。選んで頂いたお客様には「大豊道路を選んでよかった。」と思われるためにはどうするか、常に考え続け、努力していきたいと思います。
 
 まだまだ若輩者ではございますが、今後とも社業の発展に一層の精進を致す所存でございますので、何卒倍旧のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
 
2008年2月
大豊道路株式会社
代表取締役社長

大家 和

新年のご挨拶

2008-01-01
あけましておめでとうございます。

一昨年の耐震偽装、ガス給湯製品の不具合による死亡事故、談合問題に引き続き、昨年は建築材料での不正や偽装が発覚した年でした。消費者がこの業界に向ける目が更に厳しくなっていくのは確実でしょう。

日本式経営が転換を余儀なくされ、また短期での利益獲得が評価される時代となった弊害として、組織内は利益獲得最優先が職業の倫理とかプライドを上まわり、お客様の顔が見えない結果になるのではと心配しています。

お取引頂く地域の建設業の皆様の繁栄があってはじめて当社は成り立ちます。消費者の厳しい目の中、お取引先の皆様が仕事を勝ち得るための商品をそして情報を提供できるように、㈱三信建材社は社員一丸となって前進していく所存です。

また、昨年当社は8月に創業60周年を無事迎えることが出来ました。これも皆様のご愛顧のたまものと感謝するとともに、お客様が取引する価値のある会社となるため、本年も頑張っていきたいと思っております。更なるご指導、ご鞭撻をお願いいたします。
株式会社三信建材社
代表取締役 大家 覚(おおいえ さとる)

60年

2007-12-01
今年、三信建材社も60周年を迎えることができました
 
昔、むかーし。60年より少しだけ近いむかしです。
馬車でセメントを運ぶのを見ていました。
 
会社に着くと1袋ずつ肩に担いで工場内の指定の場所に運びます、中津駅までは蒸気機関車で運ばれ、貨物車から、馬車までも同じ作業であっただろうと思います、馬の手綱を引いて会社まで運んでくるのです、馬1頭で引く馬車ですから、どれくらいのセメントが積まれていたのでしょうか、馬を鞭打つでもなく、おじさんと馬はいつも同じ速さでした。
 
時に、馬は立ち止まっておしっこを始めます。馬のおしっこ、これが長いのです。いつまでもいつまでも続き、道はおしっこだらけです。大きい方は歩きながらボッタン・ボッタン落として行きます。だからといって、おじさんにも馬にも文句を言うのを聞いたことなんてありません、おしっこは道にしみこんでいきますし、大きい方なんて、畑の肥料だといって塵取りであつめて大事に持って帰る人がいましたから。
 
1袋ずつ担いで、馬で運んでいた60年前リフトに掛けて、トラックで運んでいる現代、そして、ロボットが働く時代になってきているようです。危険な場所、力仕事、又単純な作業は人に替わってくれるのでしょう。
 
60年前、夢だと思っていた事が今現実になっています、
 
若いひとたち、夢を持ってください、そして語ってください、
 
又60年後に夢が現実になっているように。少しずつ確実に楽になっていきます。毎日が楽しく過ごせるように、そんな、会社、そして社会にしたいですね。

大家桂子

「郷土史講座 №9(中津 細川時代)」

2007-11-01
前回に引き続き「FMなかつ」で第3回目放送の時に話した「細川時代」の「織部灯籠」を中心に紹介したいと思います。
 
慶長5年(1600年)、細川忠興は「関ヶ原の戦い」で徳川家康に従った功績により丹後宮津(京都府)11万石から豊前1国(8郡)と豊後2郡(国東と速見)の32万石(1説では39万9千石)を与えられ転封してきました。
 
慶長7年(1602年)忠興は小倉城に移り、子忠利が中津城(写真①)を居城とします。
 
慶長9年(1604年)現在の「行橋市今井」から腕利きの漁師たちを現在の小祝に移住させました。最初は村の名前を小今井村とし、その後忠興は小今井村で酒宴の最中、姫が生まれた事から小今井村が子祝村となり、そして現在の小祝になりました。
 
「小今井 → 子祝 → 小祝」
 
元和元年(1615年)幕府から「1国1城令」が出ます。
 
細川氏は小倉が本城であったため、中津城を何とか残したいと考えます。
 
忠興は江戸にいた子の忠利に手紙を出し、老中と相談させ中津城の残置が認められ、1国に2つの城が許されました。
 
 元和6年(1620年)忠興は家督を忠利に譲り、隠居し「三斎」を名乗り、中津城を隠居城にするため、拡張・修理し、天守閣を取り除きました。
 
その後の小笠原・奥平時代には天守閣を造ることはありませんでしたので、本丸・二の丸・三の丸と8門(大手門他)・22櫓(やぐら)が出来たのも、この頃の細川時代です。(中津城には最初から天守閣がなかったという説もあります)。又、中津城内の飲料水を確保するため、三口から島田の水道口まで水路、城下は地下を石樋で流し中津城内に給水出来るように「上水道工事」が始まったのも、この頃の細川時代です。
                      
【織部灯籠】について
1.名前の由来
   城州西岡(山城国・京都府の南部)の城主「古田織部」が考案したと言われています。又、織部灯籠は別   名 キリシタン灯籠(かくれキリシタン礼拝用の石灯籠)と呼ばれ、特徴としては灯籠の下の方にマント   をまとった人物が浮き出ています。
 
2.なぜ中津に
   古田織部と千利休は茶道の友人、千利休と細川忠興は茶道の師弟関係になります。

   天正18年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りに触れ、切腹を命ぜられますが、
   中津に残っている織部灯籠は千利休が形見として忠興に贈ったものと言われています。
 
3.宗教(キリスト教)との係わり
   忠興・忠利父子は初め、キリスト教に理解を示していました。
 
   なかでも、忠興の妻「玉」(明智光秀の3女)は熱心なキリシタンで、
   洗礼名の「細川ガラシャ」は大変有名です。
 
 関ヶ原の戦いの時、ガラシャ夫人は石田光成が家康に従う大名の妻たちを人質にしようとしますが、人質となる のをこばみ、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世を残し、自害しました。
 
 元和6年(1620年)忠興はガラシャ夫人の冥福を祈るために城内二の丸(現、裁判所の位置)に「長福寺」を 建立します。中津に残る織部灯籠は「長福寺」へ奉納されたものと、言われています。現在、中津市には織部灯 籠が3基、自性寺(新魚町)、養寿寺(浦町)、井上邸(殿町)に残っています。寛永9年(1632年)熊本城の 加藤忠広(加藤清正の子)が幕府の御法度にふれ領地没収、国替えとなり、忠利は熊本54万石へ転封し、忠興は 八代城へ移って行きます。
           
S(サンシン)著
 
①中津城
②自性寺の織部灯篭
③養寿寺の織部灯篭
④井上邸の織部灯篭
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