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株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
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「日本と韓国 ワッタリ(来たり) カッタリ(行ったり)」

2007-06-01
2002年、日韓共同開催のW杯が開催された年のある日のことだった。
 
毎日同じ時間に起き、会社に行って帰って、気の合う仲間たちと遊び、お酒を飲み変わり映えのしない毎日の中で「何か」を始めたいと思った。
 
当時、私は27歳。独身貴族。
海外旅行に行くときの為に「英会話でも習おうかなぁ?」と思った。
が、外国語を習うとなると、気になるのが、高額な「月謝」。
躊躇し、決めかねていたある日、家族で、ある焼き肉屋へ食事に行ったときその店の奥さんから「ハングル教室を開くんだけど、一緒に習ってみない?」と誘われた。
 
その教室の月謝は、たったの500円というありえない安さだった。
「ま、500円なら駄目でもあきらめられるし」と、かんたんな考えでハングル教室に通うことを決めた。
 
当時はまだ韓流ブームが来る前。もちろん『冬のソナタ』も放送されていなかった(はず)。だから私は「冬ソナ」ブームにのっかってハングルを習い始めたミーハーではない!ということだけは、声を大にしていっておきたい。
 
当時、SMAPの草なぎ剛さんが「チョ・ナンカン」という名前で、韓国語の曲を発売し、
流暢な韓国語をしゃべり、大統領にインタビューをしたり、韓国のメディアに出演したりしていた。「アイドルの彼が出来てるということは、きっと私もできる?!」という甘い考えを抱いていた。
彼の、裏側でのモノスゴイ努力を知るまでは・・・・。
 
甘い考えでは習得できっこない!と気づいた私は、本気で勉強に取り組んだ。そして韓国の映画やドラマ、料理や文化についても興味を持ち始めた。
 
「あいうえお かきくけこ さしすせそ・・・」という「五十音図」は古代に韓国から渡ってきた伽耶人の子守唄「ねぇ、なぜ泣くの?新しい服をぐちゃぐちゃにしてさぁ洗って・・・」からきたものだとすると、みなさんはさぞ驚くでしょう。
これはハングル教室の先生から戴いた『韓和似典(カンワジテン)』という一冊の本で知った。
韓国語を勉強していると、日本語とよく似ていることに気づきます。
 
無事にたどり着いた「ワッソ(来た)」という言葉は、祭りの掛け声「わっしょい」。貧しかった日々の「カナン(貧しさ)」の辛さからできた「かなしみ」。
泣きながら海を渡った「ウルム(泣く)」が変化した、復讐心の強い「うらみ」。「タジョガネ(暮れていく)」が、「たそがれ」・・・・まだまだある。
 
おととしの夏、500円の教室の先生は、日本での任期を終え、韓国に帰国した。と同時に、教室は自動解散。せっかく覚えかけた韓国語を途中で止めたくない、という思いから、別の教室を模索していたある日、同じ教室に通っていた友達から、安心院町でハングル教室ができるという情報が入った。
もちろん入会、そして現在も通いつづけている。
 
そして私の韓国語歴も、通算4年目を迎えた。読み書きはできても、ネイティブ・コリアンとの会話はなかなか上手くいかず、まだまだ草なぎくんには追いつけずにいる。
 
宇佐支店 C.K.

本当に少子化ですか?!

2007-05-01
(左から:紋菜・倖菜・大起)
わが家に双子の孫が誕生しました。二卵性の男の子と女の子です。
 
長女(3歳)も赤ちゃん返りで、まるで3つ子の様。
 
今年は暖冬でしたが、エアコンを入れっぱなしで世話をした為、九電の検針のおばさんが何かあったのかと心配したほどに電気料がかかってしまいました。そのおかげなのか今年は珍しく、家族全員風邪もひかず健康でした。
 
最近では、笑ったり、声を出したりと、益々にぎやかになってきた孫たちを、昼間は81歳の“大ばあ”が「腰が痛い、腰が痛い」と言いながらも、泣き声がすると腰の痛みを忘れて世話をしてくれます。“大ばあ”に感謝 感謝。
 
夜は毎日お風呂に入れるのがまた大変です。3歳の長女を入れ、次々手際よく双子を入れなくてはなりません。
 
還暦を過ぎた今、子育ての大変さを実感しています。
 
少子化もどこへやら・・・。
 
三不 N.K.

「郷土史講座 №7(中津城の見所)」

2007-04-01
昨年の12月、1ヶ月間「FMなかつ」の「Let‘s know ふるさと(毎週土曜日 am9:00~am10:00)」に郷土史の話で出演することになりました。今回は第1回目(12月2日)の時、前半で話した「中津城の見所」の原稿をもとに書きたいと思います。
 
本題に入る前に「中津藩」の素晴らしい所・興味を引くところを列挙してみますと、
1.九州で大大名と呼ばれた福岡城の黒田、熊本城の細川が中津から転封(てんぽう)していった。
2.幕末の頃、中津は大分県下第1の大市街地であった。
 1位 中津10万石、 2位 岡(竹田市)7万石、 3位 臼杵5万
 4位 日出2.5万石、 5位 府内(大分市)2.1万石、 6位 佐伯2万石
3.明治4年の廃藩置県後、中津藩は、
 明治4年7月「中津県」
 明治4年11月「小倉県」-下毛郡、宇佐郡とともに新設の小倉県に編入(当時全国で3府73県)
 明治9年4月「福岡県」-小倉県廃止に伴う
 明治9年8月「大分県」と変遷し、最終的に大分県に落ち着きました。

『中津城の見所』
 天守閣に登るだけでなく、城の周りを歩いてみると、たくさんのおもしろいことを発見します。
(1)「天守閣」
現在の天守閣は昭和39年に建設されましたが、中津城に天守閣があったかどうかについては議論されます。元々、中津城には天守閣がなかったという説と元和6年(1620)細川忠興が中津城を隠居城にするために天守閣を取り除いたという説があります。

(2)「薬研(やげん)堀」
薬研とは、漢方の薬をすりつぶしていた器具のことで、V字形になった底の堀を呼びます。他には底が方形の「箱堀」、底が丸い「毛抜堀」等があります。よく堀を見てみると、祇園車の車輪を堀の底に沈めています。

(3)「上段・下段」
「下段」は現在の公園地で駐車場になっていますが、当時は城内の仕事場=政庁でした。「上段」は現在の天守閣のある所で公園地より1段高く、当時は主に藩主の住居がありました。    

(4)「御花畑」
昭和30年代後半(?)だったと思いますが、遊園地がありました。
プール、観覧車、ゴーカート等があり、小学生だった私も時々プールに泳ぎに行っていました。当時は薬草を植えていました。    

(5)「三斉池」
細川忠興(剃髪して三斉)が造った池、城内の防火用水として使用されていました。    

(6)「黒田と細川の石垣」
天守閣の北側(中津城会館の前、向かって右側が黒田孝高、左側が細川忠興の石垣、黒田と細川の積み方の違いが見て取れます。黒田時代の石は四角く、川向こうの唐原遺跡(7世紀)の石を川を伝って運んだものと言われています。

(7)「南側の大鳥居横の石垣」
教育委員会が現在、石垣の積みかえ工事中、黒田の時代と細川の時代の石垣の幅、高さの違いが見て取れます。
歴史民俗資料館から公園地までの道路は明治4年に造られ、そのとき石垣を壊し、大鳥居を建てました。

(8)「生田門」
三の丸(現三ノ丁)には奥平七族と上級家老生田四郎兵衛の屋敷門です

(9)「8門」と「22櫓(やぐら)」
1.北門      北門橋の近く
2.樫ノ木門    北門を少し南に入った所
3.椎ノ木門    裁判所より西の鳥居をくぐった右側
4.黒門      裁判所南側、礎石が残っている
5.大手門     南部幼稚園の砂場、黒田如水、犬丸城の古材木
6.西門      汐湯の前の道を南に行った所
7.水門      汐湯の前
8.鉄門      中津川への出口、昔は通れたが現在は塞いでいる
 
※22櫓 本丸に15櫓、二の丸に4櫓、三の丸に3櫓、合計22の櫓があった武器や道具類を収めていた
           
最後になりましたが、友達が中津に遊びに来た時、親戚が中津に寄った時、「歴史のある中津の町」を紹介して欲しいと思います。
S(サンシン)著
(1)「天守閣」
(2)「薬研(やげん)堀」
(3)「上段・下段」
(4)「御花畑」
(5)「三斉池」
(6)「黒田と細川の石垣」

「郷土史講座 №7(中津城の見所)」

2007-04-01
(7)「南側の大鳥居横の石垣」
(8)「生田門」
1.北門
2.樫ノ木門
3.椎ノ木門
4.黒門

「郷土史講座 №7(中津城の見所)」

2007-04-01
5.大手門
6.西門
7.水門
8.鉄門
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