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株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
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『年末を迎えて』

2005-12-01
 早いもので今年も残すところ1ヶ月。1年を締めくくる12月になり、毎日が忙しい時期となりました。皆様には1年間大変お世話になりまして本当に有難うございました。
 
≪会社の業績≫
会社について、営業部門は昨年に続き売上・利益とも計画を達成出来ると思います。生産部門は自社のセメント瓦が年間を通して受注が続いていますのと、トンネル用のCP材は大型工事物件の受注を受け、出荷対応に追われている状況にあります。これは、社員全員が営業・生産の計画に協力した結果、良好な業績を残すことが出来ると思っておりますが、まだまだ未達の事項が残っておりますので、来期には努力します。
 
≪会社の行事≫
11月3日のウォーキング大会には、取引先・仕入先・社員の家族の方々、125名の参加者がありました。市内の秋の風景を見て気持の良い汗をかきながらゴールされ、女子社員の手作り料理で皆様が楽しく懇談されたことと思います。来年は10回目となりますので、参加の協力をお願い致します。
 
≪新たな取り組み≫
今年新しく取り組むことにした太陽光発電を、少しは地球環境の協力に参加できると思い、11月に自宅の屋根にパネルの設置工事を行ないました。今月の中頃には、太陽光の電気を使用出来ることを妻と楽しみに心待ちしております。初めての利用と来年には売電による収入がどれほどになるのか期待をしております。なお、本格的に営業活動を行ないますのでご協力をお願い致します。
 
来年も明るく元気に頑張りますのでよろしくお願い申し上げます。    

上家 勝

『郷土史講座 №4 (宇都宮一族)』

2005-11-01
今回は鎌倉時代以降、豊前最大の武士団に成長を遂げた『宇都宮一族』について話したいと思います。
 
「宇都宮姓」を初めて名乗ったのは下野(しもつけ)国(栃木県)宇都宮地域を勢力化に置いていた八田宗網です。
 
 2代目宇都宮信房が源頼朝から平家残党狩りの功をかわれ、豊前の「地頭職」に任ぜられ、最初は犀川町の木井馬場を拠点に広大な荘園を持ち、1330年頃 築城郡城井谷に本拠をおき、「城井氏」を称するようになりました。
 
10人の弟たち(野仲重房ら)を豊前のあちらこちらに住まわせました。
 
建久9年(1198)野仲重房は、耶馬溪津民に「長岩城」を築城しましたが、野仲重房については、またの機会に話したいと思います。
 
最も隆盛した時代は5代・通房(みちふさ)、6代・頼房(よりふさ)、7代・冬綱(ふゆつな)の3代です。宇都宮の最後の3代が17代・長甫(ちょうほ)、18代・鎮房(しげふさ)、19代・朝房(ともふさ)です。
 
天正15年(1587)九州平定を終えた豊臣秀吉は戦後の論功行賞で軍奉行であった黒田孝高に豊前国8郡のうち、企救・田川2郡を除いた京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐の6郡を与えました。
 
 城井鎮房は秀吉の九州出兵に自らは病気を理由に出陣しなかった(長子 朝房は出兵)ので秀吉の命によって、伊予国「今治」へ転封を命ぜられましたが断り、新領主黒田氏および秀吉に刃向かうことになりました。
 
天正16年(1588)1月 黒田氏と城井氏との和睦が成立し、城井鎮房は長子 朝房を黒田氏に出仕させ、千代姫を人質として黒田氏のもとに送りましたが、鎮房自身は城井谷から出ようとしませんでした。
 
 4月20日黒田孝高の長子 長政は「千代姫を嫁に貰いたい」とだまし、鎮房を中津城内に呼び出し、酒宴中に殺害しました。「合元寺」で待機していた鎮房の家来たち(200余人)も殺害し、寺の白壁が何度塗り替えても血がにじみ出てくるので最後には赤く塗ってしまった。これが『合元寺の赤壁』の由来です。
 
千代姫とその侍女数10人は山国川の広津川原で処刑され、父 長甫(80才)も城井谷を襲われ、捕らわれ殺されました。朝房も孝高について肥後国木葉(このは)に出兵中で加藤清正によって殺されました。
 
鎌倉時代より約400年間 豊前地方を治めていた宇都宮氏は滅亡しました。

S(サンシン) 著    
 

遠隔地菜園のススメ

2005-10-01
菜園は、実家の敷地内にあり、広さは20坪程度です。
 
これまでに手がけてきた作物は、「キュウリ・ナス・トマト・オクラ・ピーマン・ニガウリ・タカノツメ・ジャガイモ・ソラマメ・インゲンマメ・サトイモ・ベニアズマ・ダイコン・カブ・ニンジン・ハクサイ・キャベツ・シュンギク・ホウレンソウ・フダンナ・ネギ・タマネギ・カボチャ」である。
 
不出来のものは、カボチャ(交配しなかったので実のつきが悪かった)、ベニアズマ(つるばかり伸びて実入りが少なかった)、ハクサイ(バッタにやられる)、キャベツ(青虫にやられる)だった。その他の作物は、おおかた期待を裏切らないくらいのできばえであった。
 
最初は菜園作りなどまったくするつもりはなかった。父が床につきがちになり、雑草とりが大ごと苦痛だったので、草取りよりましだろうぐらいの軽い気持ちではじめた菜園でした。作りはじめの頃は、地面にただ苗を植えたり、タネをまくだけの半ばやけっぱちな手荒い仕事だった。また、菜園は住んでいる大分市から遠くはなれた日田市にあるため、月1程度帰ってからの作業であり、手間ひまかけることもなかったのだが・・・・・。
 
いつの頃からか作物を育てる前には、スコップで天地返しを行い、苦土石灰を撒き、牛糞・鶏糞堆肥を施すようになった。そのため日田へ帰る回数が従来より増えた分だけ菜園作業に手間ひまかけるようになった。おかげで、いつ頃どこに何を植えようか、その前の地ならしの段取りはいつするかなど、天気と遊びとカレンダーとにらめっこするのも楽しみの一つになってきた。
 
この頃には、母ひとりが日田に住んでいたので、家庭菜園に精をだすことは、母の顔を見に帰ることと等しくなりました。「百聞は一見にしかず」の言葉があるように、一見は私の安心となりました。
 
草取りは「大嫌い」からはじまり、次第に手間ひまかけることの「楽しさ」から、さらには一見の「安心」へと私の家庭菜園作りは変移してきました。私のように高速代をかけてまでの家庭菜園作りは、生産原価が高く不経済であることはわかっています。でも金銭の多寡の尺度では、はかれない価値もあるのだと、あらためて思い知らされました。
 
以上こじつけの自説ですが、遠隔地菜園作りもなかなかのものです。条件に合う方には、ぜひ、おススメします。
 
経営管理部
樋口修司

私の子育ての方針

2005-09-01
私の子育ては、子どもの良いとこは褒める。子どもに強制はせず、子どもがやりたいことは、出来るだけやらせる。ただし、弱いものをいじめたり悪いことをすると、鉄拳を与える。を基本とし、子どもに宣言をしていた。 そんな私が最近出会って感銘を受けた詩が有ります。
既にご存知の方も多いかとも存知ますが、子どもに対する接し方を考える時、一考察になればと思いここにご紹介させて頂きます。
 
『子ども』 ドロシー・ロー・ノルトの詩より
 
批判ばかりされた子どもは
非難することをおぼえる
 
殴られて大きくなった子どもは
力にたよることをおぼえる
 
笑いものにされた子どもは
ものを言わずにいることをおぼえる
 
皮肉にさらされた子どもは
鈍い良心のもちぬしとなる
 
しかし、激励をうけた子どもは
自信をおぼえる
 
寛容にであった子どもは
忍耐をおぼえる
 
賞賛を受けた子どもは
評価することをおぼえる
 
フェアプレーを経験した子どもは
公正をおぼえる
 
友情を知る子どもは
親切をおぼえる
 
安心を経験した子どもは
信頼をおぼえる
 
可愛がられ 抱きしめられた子どもは
世界中の愛情を感じとることをおぼえる
 
出典:あなた自身の社会 (スウェーデンの中学教科書)    

Y.O   

「郷土史講座 №3」

2005-08-01
前2回は『中津近郊の古城めぐり』(現地探訪)について話しましたが、今回は中津の『6ヶ所の口屋』の話をしたいと思います。
 
享保2年(1717)6月 奥平昌成(まさしげ)が丹後 宮津(京都府)より中津10万石に封入すると「6ヶ所の口屋」を設けました。『6ヶ所の口屋』とは、東に「大塚口」・「蛎瀬口」、南に「島田口」・「金谷口」、西に「広津口」・「小倉口」の6つです。『口』とは中津城下に入る門のようなもので番所に当たり、ここを通らなければ城下に入れず、又、用がなければ「口」を通る事ができませんでした。
 
それぞれの口には6人の門番がいて、怪しい者が城下に入らない様に厳しく取り調べていました。
旅人は小犬丸から山国川を船で渡ると、小倉口からは入らず、外堀の土塁の外の金谷西堀端から金谷東堀端を通り、島田村で宿を取っていました。・・・「外往還」。
 
この為、城下はすだれていき、享保2年(1717)奥平氏が入って来た時、城下町の人口は4186人いましたが、文政7年(1824)には3734人に人口もだんだん減っていきました。特に、京町・古博多町・堀川町では空家が増え、堀川町・角木町では空き地が増えました。
 
文政9年(1826)9月29日、城下を活性化するために『市中往来令』を発し、「外往還」から「内往還」に変更しました。
 
※「内往還」・・・小倉口→京町八百屋の辻→新博多町・古博多町境の辻→古博多町中の辻→古魚町札の辻→舟町→塩町中の辻→桜町横町→豊後町通り→蛎瀬口
 
それと同時に宿駅も島田村から蛎瀬村に移されました。塩町や豊後町には風呂屋・髪結床・荒物商などの店が並びました。城下は賑わい城下町は活性化し、だれでも城下に入ることができましたが反面、市中には泥棒が増え、治安が悪化したため、文政12年(1829)10月1日、「内往還」は廃止され、たった3年で「外往還」に戻ってしまいました。
 
S著   
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