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株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
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温泉

2005-07-01
いつの頃から好きになったのか分からない「温泉」。正しくは300~500円払って入るただの入浴です。夫婦の会話では「今日どこの温泉に行く?」である。
 
私が初めて温泉を経験したのは6歳の時、両親と妹と4人での別府鉄輪温泉。父の仕事が漁師で毎年漁のない2月に体の治療を兼ねて、一週間程の湯治旅行でした。
 
その時分は当然の事ながら温泉を好む理由もなくて、宇島駅~亀川駅まで2時間の汽車の旅や、バスにも乗れて、ラクテンチに行けて、地獄めぐりができた。新しい体験だらけの家族旅行が一番の楽しみであった。中でもオンドル(床暖房)は最高にリッチな気分となった。外は2月の寒風、でも室内はポカポカ。鉄輪はすごい所だ!!まるで別世界だと子供心に感動した。その後、湯治旅行は2~3年続いたが、冬の時期に海苔の養殖が始まり、忙しくなって中止となった。
 
大人になって何度か親孝行のつもりで鉄輪を訪れたが、どこも昔見た姿はなく思い出話だけになった。
 
子供に手がかからなくなった頃から夫婦2人、耶馬溪温泉に行きだした。町営をはじめ奈女川・折戸・若山・沢山の温泉を人から聞き出かけました。併せて“もみじ屋”のソバ饅頭と山かけそば、からし椎茸はお勧めです。一度試してみては・・・美味しいですよ。
 
安心院温泉は、なし・ぶどう・りんごなどがあり夏から秋の時期がお勧めです。
 
小国・黒川は6月の田植えシーズンが混んでなくてゆっくりです。途中“岡本とうふ店”でとうふあげはお土産にもできます。“木べえ”の炭火焼地鳥は安くて本当に美味しいです。
 
温泉だけというより、食べ物とセットになって楽しんでいます。最近はその副産物に心動かされ、温泉に出かけています。年齢が高くなって、片道2時間コースが限界ですが、目的地までの車中は妻とあれこれ話しながら、どこで何を食べて、何を見学して、土産は何が有名かなど、議論していくので、結構早く着きます。(一人じゃなかなか行かないネ)
 
残り少ない年ですから年に1回は九州以外の温泉をと考えていますが、仕事の関係と家にヒメ(猫)がいる間は1泊2日が限度です。どなたかより良い情報をお聞かせください。よろしくお願いします。
 
東浜工場
西本   

ハイセイコー 思い出の名馬

2005-06-01
ハイセイコーと言う馬をご承知でしょうか、ハイセイコーは父チャイナロック、母ハイユウの間に生まれた牡馬で昭和48年頃の競走馬である。その頃、国民的英雄となり歌にまでなったのを記憶している。
 
それ以前競馬はギャンブルの対象でしかなく、馬の名前が一般大衆にまで知られるようなことはなかった。ハイセイコーがここまで知られるようになったのはその経歴にある。決してエリートではない自分をこの馬にダブらせ活躍を期待したのであろう。
 
ハイセイコーは所属が中央競馬会ではなくスポットライトの当らない大井競馬場であった。当時、中央と公営を比較すれば公営は3本足の馬が走っていると言われていたこの大井競馬場で鮮烈デビューをはたした。他馬を全く寄せ付けず、馬なりで大差の1着であった。その後5連勝を成し遂げあまりの強さにレースが成立せず、中央競馬会に移された。
 
中央での最初のレースは中山競馬場で行なわれる弥生賞であった。3番手につけたハイセイコーは直線で他馬を一気に抜き去り3馬身差の1着であった。「この馬は強いなーと思った。」その後スプリングステークスを勝ち、迎えるクラッシックレース第1弾の皐月賞である。ファンファーレが鳴りゲートが開くと同時に一斉スタートが切られた。
 
先行馬のハイセイコーは3番手の好位置につけ1コーナーから3コーナーへ順調に進んだ。4コーナー手前より後続馬が差を詰めにかかった、特に怖いのはライバルのクリオンワードとカミノテシオである。直線勝負になればジリ足のハイセイコーは負けるのではないかと思った。しかし、4コーナーを周るとハイセイコーは末足を伸ばし終わってみればやはり3馬身差の1着であった。
 
1冠を制したハイセイコーは2冠目のダービーに向け東京競馬所のNHK杯に出場予定をしていた。ハイセイコーには死角がない様に思われた。ファンはハイセイコーの勝利を信じ疑わなかった。迎えたNHK杯のいよいよスタートである。いつもの様に定位置の3番手につけ快調に3コーナー迄通過した。
 
いよいよ4コーナーである。ハイセイコーはここで先頭に立つだろうと思った。しかし、馬群から抜けてこない。なぜだろう、どうかしたのか、そう思っているうちに4コーナー坂上である。ここで抜け出せなければ負けだ。不安が横切る馬群に包まれ抜け出せないでいるのだ。「負けたな」と思った瞬間ハイセイコーが馬群を割って半馬身抜け出てゴール前を通過した。1着である。ファンは胸をなでおろした。ゴール前わずか10m位の所から、まさに神がかり的な勝利であった。
 
3週間後のダービー当日、やはりハイセイコーは断突の1番人気であった。パドックでのハイセイコーは少しイレが強い様に思われた。やがて歓声の中ダービーのゲートは開いた。1コーナーを過ぎハイセイコーは定位置の3~4番手につけた。しかし、増沢騎手は馬を外へ外へと持ち出した。やはり包まれるのを嫌っているのであろうか。この展開が4コーナー付近まで続いた。やがて4コーナーに差し掛かり他馬も一斉に差を詰めてきた。4コーナーを曲がり直線に入ったところで増沢騎手が仕掛けた「早い」そう思った。
 
馬群に包まれる前に抜き出そうという作戦だろうが早すぎる。東京の直線は550mある。そんな長い間末足が持つはずがない、直線坂上まで待つべきではないのか。しかし、ハイセイコーは他馬に2~3馬身の差をつけ先頭に立った。足いろが一杯でそれ以上の差はつかなかった。4コーナー坂上付近で外から2頭の馬が追ってきた。外タケホープ、内イチフジイサミだ、一瞬にしてハイセイコーをかわした、優勝はこの2頭に絞られた打たき合いの結果、タケホープが1馬身差の1着となりダービー馬となった。
 
ハイセイコーは3番手に沈んだ。ハイセイコーが初めて負けた日であった。
 
1着のタケホープはダービー最終予選の東京4才ステークスで勝ち、ぎりぎりダービーの出場権を得た馬である。2着のイチフジイサミも未勝利戦を勝ち条件特別の菜の花賞に勝った程度の馬だ。両馬とも長距離血統の馬で東京の2400mで花咲いたのだ、結局ハイセイコーは3着、馬群に包まれるのを嫌い外へ外へと持ち出すたびに、なしくずしに足を使い直線の伸び足がなかった。このレースは馬の実力よりもNHK杯の様に馬群に包まれ出られず負けるという幻想を抱いた増沢騎手の意識に負因があったように思う。
 
32年前の話しである。今年も多くの若駒がダービーを目指してくることだろう。
 
我社にも今年5人の新入社員を迎えた、今後どんな人生というレースをするかわからないが、あせることはない ゲートは今開いたばかりだ。そして、社会というターフを力強く走り抜けて欲しい。
 
三信建材社
渡辺滋典   

『年を取ったなあ! No.2』

2005-05-01
前回、『中津近郊の古城めぐり』(現地探訪)で大畑城・正行寺について、話しましたが今回は続きの長久寺・草場城・光岡城について紙面の許す限り書いてみたいと思います。興味のある方は読んでみて下さい。
 
本堂で住職から聞いた講和を中心に書いてみます。
現住所は福島ですがこれは江戸時代になってからで、それ以前は築地(ついじ)と呼ばれていました。
        ※築地(ついじ)-塀がある、道がある、廻りに市場がある。
お寺の前の道は高瀬から宇佐への勅使街道になります。
天正15年(1587)12月 宇都宮鎮房に呼応した田丸城主 福島佐渡守鎮充は黒田孝高指揮の吉川広家・黒田長政軍に攻撃され、黒田軍に敗れました。
出家し、長久寺になったのは江戸時代(細川時代)からです。
現在の本堂の棟上は天保9(1836)、山門、鐘つき堂、経堂は享保元(1716)で約300年前の建物です。
歴史を感じさせる重厚感のある建物が境内に建っています。裏の池は元禄元年(1688)荒瀬井堰が完了した時にできたものです。ガラシャ夫人(細川忠興夫人・明智光秀の3女)「玉子」の33回忌もここ長久寺で行なわれました。又、伊能忠敬も泊まっています。
 
(4)草場城(上伊藤田城)
大友氏家臣代々居城があった場所で天正15年(1587)宇都宮鎮房につき、黒田氏の制圧に抵抗し、兵300で挑戦するが10月10日戦死しました。
天正16年(1588)黒田長政の犬丸城攻めに草場甲斐守同五郎の名が残っており、城山城址には草場甲斐守の墓がひっそりとたっています。草場の有志により昭和30年4月に建立された記念の碑も建っています。場所的には、中津健康センター裏あたりの伊藤田の山中です。

(5)光岡城(赤尾氏・宇佐市赤尾)
この地は16世紀前半(室町時代)、大内氏が支配していました。弘治3年(1557)以降、豊前国は大友氏の支配になりました。赤尾氏は宇佐神宮の大造営で作事(建築)奉行に任命されたこともあります。
赤尾氏・渡辺氏(四日市)・中島氏(高家)は宇佐郡内で有力な大友氏の武士でした。天正6年(1578)、大友氏が日向遠征で大敗後、豊前地方は大友方と反大友方に分裂し、戦が繰り返されました。天正8(1580)年、長野氏(北九州市)・城井氏(築城町)は赤尾統秀(むねひで)の宅所と切寄を襲いましたが、城が堅固であったので敵を撃退しています。
 
※宅所‐平時の領地支配の拠点である館
                   現在谷底の平坦部に残っている土塁の一部がその遺構です。
※切寄‐大友氏の支配地域では城館のこと
                   堀を切り開いた土石を寄せて土塁や石垣とした土木事業に由来する。
                   赤尾氏の場合・・・戦時にたてこもる山城の名称
 
現在はきれいに整備され、立派な公園となっており、宇佐平野を眼下かに見下ろすことができます。
三信建材社
S著

ストレス解消?

2005-04-01
「初心者でも大丈夫な山だから登ろう」と山の先生に誘われて約14年。月に1~2回、近場の山に登りストレスを解消しています。
 
毎年・毎月色々な山に同行し、登ったが、数年前 宮崎の山にツアーで友人と2人参加した時、朝から大雨全員中止をせず登り、昼食時は弁当に水が溜まりながら食べ、帰ってからは風邪をひき大変な思いをしたなぁといつも思い出します。
それからはなるべく天気の良い日を選び、無理をせず登るようにしています。
そして山頂でのビールの味は最高です。
 
そしてもう1つ思うことは登る途中と頂上までにゴミが以前より少なくなり、綺麗になった。
 
※職場でも家庭でも掃除をして綺麗にしましょう。

三信建材社 行橋支店
N.S

『年を取ったなあ!』

2005-03-01
皆さん、こんにちは。
5年ほど前から興味を持って始めたことに“郷土史”と“古文書”があります。“郷土史”は中津にずっと住んでいて始めて知る事・見る事の多いこと。“古文書”は日頃、親しみのない「候文」が反対に新鮮味を感じます。文治3年(1187)、宇都宮信房が源頼朝から平家残党狩の功をかわれ豊前の「地頭職」に任ぜられてから天正16年(1588)黒田氏に滅ぼされるまで豊前地方を治めていました。
 
黒田氏は福岡52万石へ、その後入府した細田氏は熊本54万石へと転封しました。
豊前地方は歴史的に見ても大分県第一の歴史の宝庫だと思います。去年の末、現地探訪で『中津近郊の古城めぐり』に行ってきました。中津で大畑城、正行寺(末弘城)、長久寺(田丸城)、草場城、その後、宇佐で時枝城、光岡城と廻りました。今後も機会あるごとに参加し、もっと中津を知ろうと思っています。以下、その時の探訪場所を思い出しながら書きますので興味のある方は読んでみて下さい。
 
「ひとりごと」
 
(1)大畑城
古城があったのはバイパス 中津少年院の近くです。
天正16年(1588)、黒田如水の長子・長政に落城させられた城主 賀来安芸守統直は伊藤田越えの山中で黒田方の秣氏に待ち伏せされ戦死しました。三光村大源寺から獣道を15分ほど登ると山の中に「賀来どんの墓」がひっそりとたたずんでいます。
 
(2)正行寺(末弘城)
天正7年(1579)、末弘城主 対馬守正行は、宇都宮一族の長岩城主(津民)野仲鎮兼に攻められ、剃髪し、寺を建て、「正行寺」と号しました。
文政元年(1818)、雲華上人は正行寺を訪れた頼山陽を山国川の奇石へ案内し、「山国の渓→耶馬渓」と名付けました。(正行寺奥様の話)正行寺の山門前には城であった証として、今でも土塁跡・堀跡が残っています。
 
他の場所については、機会があれば、又 書いてみたいと思います。
中津近郊でおもしろい話をお持ちの方、是非一報をお待ちしています。

三信建材社
S 著
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