かわらばん
毎月お楽しみに。
私の子育ての方針
2005-09-01
私の子育ては、子どもの良いとこは褒める。子どもに強制はせず、子どもがやりたいことは、出来るだけやらせる。ただし、弱いものをいじめたり悪いことをすると、鉄拳を与える。を基本とし、子どもに宣言をしていた。 そんな私が最近出会って感銘を受けた詩が有ります。
既にご存知の方も多いかとも存知ますが、子どもに対する接し方を考える時、一考察になればと思いここにご紹介させて頂きます。
既にご存知の方も多いかとも存知ますが、子どもに対する接し方を考える時、一考察になればと思いここにご紹介させて頂きます。
『子ども』 ドロシー・ロー・ノルトの詩より
批判ばかりされた子どもは
非難することをおぼえる
非難することをおぼえる
殴られて大きくなった子どもは
力にたよることをおぼえる
力にたよることをおぼえる
笑いものにされた子どもは
ものを言わずにいることをおぼえる
ものを言わずにいることをおぼえる
皮肉にさらされた子どもは
鈍い良心のもちぬしとなる
鈍い良心のもちぬしとなる
しかし、激励をうけた子どもは
自信をおぼえる
自信をおぼえる
寛容にであった子どもは
忍耐をおぼえる
忍耐をおぼえる
賞賛を受けた子どもは
評価することをおぼえる
評価することをおぼえる
フェアプレーを経験した子どもは
公正をおぼえる
公正をおぼえる
友情を知る子どもは
親切をおぼえる
親切をおぼえる
安心を経験した子どもは
信頼をおぼえる
信頼をおぼえる
可愛がられ 抱きしめられた子どもは
世界中の愛情を感じとることをおぼえる
世界中の愛情を感じとることをおぼえる
出典:あなた自身の社会 (スウェーデンの中学教科書)
Y.O
「郷土史講座 №3」
2005-08-01
前2回は『中津近郊の古城めぐり』(現地探訪)について話しましたが、今回は中津の『6ヶ所の口屋』の話をしたいと思います。
享保2年(1717)6月 奥平昌成(まさしげ)が丹後 宮津(京都府)より中津10万石に封入すると「6ヶ所の口屋」を設けました。『6ヶ所の口屋』とは、東に「大塚口」・「蛎瀬口」、南に「島田口」・「金谷口」、西に「広津口」・「小倉口」の6つです。『口』とは中津城下に入る門のようなもので番所に当たり、ここを通らなければ城下に入れず、又、用がなければ「口」を通る事ができませんでした。
それぞれの口には6人の門番がいて、怪しい者が城下に入らない様に厳しく取り調べていました。
旅人は小犬丸から山国川を船で渡ると、小倉口からは入らず、外堀の土塁の外の金谷西堀端から金谷東堀端を通り、島田村で宿を取っていました。・・・「外往還」。
旅人は小犬丸から山国川を船で渡ると、小倉口からは入らず、外堀の土塁の外の金谷西堀端から金谷東堀端を通り、島田村で宿を取っていました。・・・「外往還」。
この為、城下はすだれていき、享保2年(1717)奥平氏が入って来た時、城下町の人口は4186人いましたが、文政7年(1824)には3734人に人口もだんだん減っていきました。特に、京町・古博多町・堀川町では空家が増え、堀川町・角木町では空き地が増えました。
文政9年(1826)9月29日、城下を活性化するために『市中往来令』を発し、「外往還」から「内往還」に変更しました。
※「内往還」・・・小倉口→京町八百屋の辻→新博多町・古博多町境の辻→古博多町中の辻→古魚町札の辻→舟町→塩町中の辻→桜町横町→豊後町通り→蛎瀬口
それと同時に宿駅も島田村から蛎瀬村に移されました。塩町や豊後町には風呂屋・髪結床・荒物商などの店が並びました。城下は賑わい城下町は活性化し、だれでも城下に入ることができましたが反面、市中には泥棒が増え、治安が悪化したため、文政12年(1829)10月1日、「内往還」は廃止され、たった3年で「外往還」に戻ってしまいました。
S著
温泉
2005-07-01
いつの頃から好きになったのか分からない「温泉」。正しくは300~500円払って入るただの入浴です。夫婦の会話では「今日どこの温泉に行く?」である。
私が初めて温泉を経験したのは6歳の時、両親と妹と4人での別府鉄輪温泉。父の仕事が漁師で毎年漁のない2月に体の治療を兼ねて、一週間程の湯治旅行でした。
その時分は当然の事ながら温泉を好む理由もなくて、宇島駅~亀川駅まで2時間の汽車の旅や、バスにも乗れて、ラクテンチに行けて、地獄めぐりができた。新しい体験だらけの家族旅行が一番の楽しみであった。中でもオンドル(床暖房)は最高にリッチな気分となった。外は2月の寒風、でも室内はポカポカ。鉄輪はすごい所だ!!まるで別世界だと子供心に感動した。その後、湯治旅行は2~3年続いたが、冬の時期に海苔の養殖が始まり、忙しくなって中止となった。
大人になって何度か親孝行のつもりで鉄輪を訪れたが、どこも昔見た姿はなく思い出話だけになった。
子供に手がかからなくなった頃から夫婦2人、耶馬溪温泉に行きだした。町営をはじめ奈女川・折戸・若山・沢山の温泉を人から聞き出かけました。併せて“もみじ屋”のソバ饅頭と山かけそば、からし椎茸はお勧めです。一度試してみては・・・美味しいですよ。
安心院温泉は、なし・ぶどう・りんごなどがあり夏から秋の時期がお勧めです。
小国・黒川は6月の田植えシーズンが混んでなくてゆっくりです。途中“岡本とうふ店”でとうふあげはお土産にもできます。“木べえ”の炭火焼地鳥は安くて本当に美味しいです。
温泉だけというより、食べ物とセットになって楽しんでいます。最近はその副産物に心動かされ、温泉に出かけています。年齢が高くなって、片道2時間コースが限界ですが、目的地までの車中は妻とあれこれ話しながら、どこで何を食べて、何を見学して、土産は何が有名かなど、議論していくので、結構早く着きます。(一人じゃなかなか行かないネ)
残り少ない年ですから年に1回は九州以外の温泉をと考えていますが、仕事の関係と家にヒメ(猫)がいる間は1泊2日が限度です。どなたかより良い情報をお聞かせください。よろしくお願いします。
東浜工場
西本
西本
ハイセイコー 思い出の名馬
2005-06-01
ハイセイコーと言う馬をご承知でしょうか、ハイセイコーは父チャイナロック、母ハイユウの間に生まれた牡馬で昭和48年頃の競走馬である。その頃、国民的英雄となり歌にまでなったのを記憶している。
それ以前競馬はギャンブルの対象でしかなく、馬の名前が一般大衆にまで知られるようなことはなかった。ハイセイコーがここまで知られるようになったのはその経歴にある。決してエリートではない自分をこの馬にダブらせ活躍を期待したのであろう。
ハイセイコーは所属が中央競馬会ではなくスポットライトの当らない大井競馬場であった。当時、中央と公営を比較すれば公営は3本足の馬が走っていると言われていたこの大井競馬場で鮮烈デビューをはたした。他馬を全く寄せ付けず、馬なりで大差の1着であった。その後5連勝を成し遂げあまりの強さにレースが成立せず、中央競馬会に移された。
中央での最初のレースは中山競馬場で行なわれる弥生賞であった。3番手につけたハイセイコーは直線で他馬を一気に抜き去り3馬身差の1着であった。「この馬は強いなーと思った。」その後スプリングステークスを勝ち、迎えるクラッシックレース第1弾の皐月賞である。ファンファーレが鳴りゲートが開くと同時に一斉スタートが切られた。
先行馬のハイセイコーは3番手の好位置につけ1コーナーから3コーナーへ順調に進んだ。4コーナー手前より後続馬が差を詰めにかかった、特に怖いのはライバルのクリオンワードとカミノテシオである。直線勝負になればジリ足のハイセイコーは負けるのではないかと思った。しかし、4コーナーを周るとハイセイコーは末足を伸ばし終わってみればやはり3馬身差の1着であった。
1冠を制したハイセイコーは2冠目のダービーに向け東京競馬所のNHK杯に出場予定をしていた。ハイセイコーには死角がない様に思われた。ファンはハイセイコーの勝利を信じ疑わなかった。迎えたNHK杯のいよいよスタートである。いつもの様に定位置の3番手につけ快調に3コーナー迄通過した。
いよいよ4コーナーである。ハイセイコーはここで先頭に立つだろうと思った。しかし、馬群から抜けてこない。なぜだろう、どうかしたのか、そう思っているうちに4コーナー坂上である。ここで抜け出せなければ負けだ。不安が横切る馬群に包まれ抜け出せないでいるのだ。「負けたな」と思った瞬間ハイセイコーが馬群を割って半馬身抜け出てゴール前を通過した。1着である。ファンは胸をなでおろした。ゴール前わずか10m位の所から、まさに神がかり的な勝利であった。
3週間後のダービー当日、やはりハイセイコーは断突の1番人気であった。パドックでのハイセイコーは少しイレが強い様に思われた。やがて歓声の中ダービーのゲートは開いた。1コーナーを過ぎハイセイコーは定位置の3~4番手につけた。しかし、増沢騎手は馬を外へ外へと持ち出した。やはり包まれるのを嫌っているのであろうか。この展開が4コーナー付近まで続いた。やがて4コーナーに差し掛かり他馬も一斉に差を詰めてきた。4コーナーを曲がり直線に入ったところで増沢騎手が仕掛けた「早い」そう思った。
馬群に包まれる前に抜き出そうという作戦だろうが早すぎる。東京の直線は550mある。そんな長い間末足が持つはずがない、直線坂上まで待つべきではないのか。しかし、ハイセイコーは他馬に2~3馬身の差をつけ先頭に立った。足いろが一杯でそれ以上の差はつかなかった。4コーナー坂上付近で外から2頭の馬が追ってきた。外タケホープ、内イチフジイサミだ、一瞬にしてハイセイコーをかわした、優勝はこの2頭に絞られた打たき合いの結果、タケホープが1馬身差の1着となりダービー馬となった。
ハイセイコーは3番手に沈んだ。ハイセイコーが初めて負けた日であった。
1着のタケホープはダービー最終予選の東京4才ステークスで勝ち、ぎりぎりダービーの出場権を得た馬である。2着のイチフジイサミも未勝利戦を勝ち条件特別の菜の花賞に勝った程度の馬だ。両馬とも長距離血統の馬で東京の2400mで花咲いたのだ、結局ハイセイコーは3着、馬群に包まれるのを嫌い外へ外へと持ち出すたびに、なしくずしに足を使い直線の伸び足がなかった。このレースは馬の実力よりもNHK杯の様に馬群に包まれ出られず負けるという幻想を抱いた増沢騎手の意識に負因があったように思う。
32年前の話しである。今年も多くの若駒がダービーを目指してくることだろう。
我社にも今年5人の新入社員を迎えた、今後どんな人生というレースをするかわからないが、あせることはない ゲートは今開いたばかりだ。そして、社会というターフを力強く走り抜けて欲しい。
三信建材社
渡辺滋典
渡辺滋典
『年を取ったなあ! No.2』
2005-05-01
前回、『中津近郊の古城めぐり』(現地探訪)で大畑城・正行寺について、話しましたが今回は続きの長久寺・草場城・光岡城について紙面の許す限り書いてみたいと思います。興味のある方は読んでみて下さい。
本堂で住職から聞いた講和を中心に書いてみます。
現住所は福島ですがこれは江戸時代になってからで、それ以前は築地(ついじ)と呼ばれていました。
現住所は福島ですがこれは江戸時代になってからで、それ以前は築地(ついじ)と呼ばれていました。
※築地(ついじ)-塀がある、道がある、廻りに市場がある。
お寺の前の道は高瀬から宇佐への勅使街道になります。
天正15年(1587)12月 宇都宮鎮房に呼応した田丸城主 福島佐渡守鎮充は黒田孝高指揮の吉川広家・黒田長政軍に攻撃され、黒田軍に敗れました。
出家し、長久寺になったのは江戸時代(細川時代)からです。
現在の本堂の棟上は天保9(1836)、山門、鐘つき堂、経堂は享保元(1716)で約300年前の建物です。
歴史を感じさせる重厚感のある建物が境内に建っています。裏の池は元禄元年(1688)荒瀬井堰が完了した時にできたものです。ガラシャ夫人(細川忠興夫人・明智光秀の3女)「玉子」の33回忌もここ長久寺で行なわれました。又、伊能忠敬も泊まっています。
お寺の前の道は高瀬から宇佐への勅使街道になります。
天正15年(1587)12月 宇都宮鎮房に呼応した田丸城主 福島佐渡守鎮充は黒田孝高指揮の吉川広家・黒田長政軍に攻撃され、黒田軍に敗れました。
出家し、長久寺になったのは江戸時代(細川時代)からです。
現在の本堂の棟上は天保9(1836)、山門、鐘つき堂、経堂は享保元(1716)で約300年前の建物です。
歴史を感じさせる重厚感のある建物が境内に建っています。裏の池は元禄元年(1688)荒瀬井堰が完了した時にできたものです。ガラシャ夫人(細川忠興夫人・明智光秀の3女)「玉子」の33回忌もここ長久寺で行なわれました。又、伊能忠敬も泊まっています。
(4)草場城(上伊藤田城)
大友氏家臣代々居城があった場所で天正15年(1587)宇都宮鎮房につき、黒田氏の制圧に抵抗し、兵300で挑戦するが10月10日戦死しました。
天正16年(1588)黒田長政の犬丸城攻めに草場甲斐守同五郎の名が残っており、城山城址には草場甲斐守の墓がひっそりとたっています。草場の有志により昭和30年4月に建立された記念の碑も建っています。場所的には、中津健康センター裏あたりの伊藤田の山中です。
大友氏家臣代々居城があった場所で天正15年(1587)宇都宮鎮房につき、黒田氏の制圧に抵抗し、兵300で挑戦するが10月10日戦死しました。
天正16年(1588)黒田長政の犬丸城攻めに草場甲斐守同五郎の名が残っており、城山城址には草場甲斐守の墓がひっそりとたっています。草場の有志により昭和30年4月に建立された記念の碑も建っています。場所的には、中津健康センター裏あたりの伊藤田の山中です。
(5)光岡城(赤尾氏・宇佐市赤尾)
この地は16世紀前半(室町時代)、大内氏が支配していました。弘治3年(1557)以降、豊前国は大友氏の支配になりました。赤尾氏は宇佐神宮の大造営で作事(建築)奉行に任命されたこともあります。
赤尾氏・渡辺氏(四日市)・中島氏(高家)は宇佐郡内で有力な大友氏の武士でした。天正6年(1578)、大友氏が日向遠征で大敗後、豊前地方は大友方と反大友方に分裂し、戦が繰り返されました。天正8(1580)年、長野氏(北九州市)・城井氏(築城町)は赤尾統秀(むねひで)の宅所と切寄を襲いましたが、城が堅固であったので敵を撃退しています。
※宅所‐平時の領地支配の拠点である館
現在谷底の平坦部に残っている土塁の一部がその遺構です。
※切寄‐大友氏の支配地域では城館のこと
堀を切り開いた土石を寄せて土塁や石垣とした土木事業に由来する。
赤尾氏の場合・・・戦時にたてこもる山城の名称
現在谷底の平坦部に残っている土塁の一部がその遺構です。
※切寄‐大友氏の支配地域では城館のこと
堀を切り開いた土石を寄せて土塁や石垣とした土木事業に由来する。
赤尾氏の場合・・・戦時にたてこもる山城の名称
現在はきれいに整備され、立派な公園となっており、宇佐平野を眼下かに見下ろすことができます。
三信建材社
S著
S著