本文へ移動
株式会社三信建材社
〒871-0006
大分県中津市大字東浜1105番地1
TEL.0979-22-2830
FAX.0979-23-3830

プレスセメント瓦・セラミック瓦(ゆきち瓦)・製造販売施工
CP材(高断熱性耐火材料)、セメント、衛生陶器、太陽光発電システム、その他一般建材の販売、内装仕上げ工事の設計・施工、上下水道衛生工事の請負

 かわらばん

社内の隠れエッセイストたちのお部屋です。 毎月お楽しみに。
 毎月お楽しみに。
RSS(別ウィンドウで開きます) 

郷土史講座№12(中津 小笠原時代 №2)

2008-11-01
前回は中津 小笠原時代初代長次(ながつぐ)と2代長勝(ながかつ)を話しましたが、今回は引き続き中津 小笠原時代後半を話したいと思います。
 
(3) 3代 長胤(ながたね)時代~2代長勝の兄・長知(ながとも)の長子
 
 天和(てんな)2(1682)、長胤が家督をつぐと初めの内は藩財政の立て直しに努力していました。貞享3(1686) 本耶馬溪の樋田から沖代平野まで灌漑を目的に15kmの荒瀬井路の工事を行い、又、元禄7(1694) 100軒余の中津城下の大火の復旧工事のため、莫大な費用を要し、藩財政をさらに圧迫、悪化させます。長胤も浪費・乱行癖があり、そううつ病でした。領民には苛税を課し、こうした酷政は幕府の知るところとなり、元禄11(1698)7月28日領地は没収され、長胤は小倉藩に預けられます。領地没収の翌日、譜代大名で祖父が徳川家康の血を引くこともあり、幕府は特旨をもって下毛・宇佐2郡4万石を長胤の弟である長円が城主として残ることになります。残りの領地(宇佐市、本耶馬、耶馬溪、山国の一部)は幕府直轄の天領になり、陣屋は四日市(現在の勤労青少年ホーム)にありました。長円の弟・長宥(ながます)は時枝領5,000石を分け与えられ、旗本(家禄1万石未満)になります。陣屋は豊前善光寺の門前にありました。
 
(4) 4代 長円(ながのぶ)時代~3代長胤の弟
 
 長円も又、病弱で乱行が始まります。元禄16(1703) 当時の東浜村と新田村の間の松原に別荘を築きます。現在の工科短大(東浜)東側の道路をはさんだ場所で「お池州」と呼ばれていました。今は畑ですが、当時は池があり、ほとりに別荘を建てました。中津城から蛎瀬、大塚に堀を掘って城内から舟で通えるようにし、池のほとりの別荘は室内は装飾に善美をつくし、日夜の宴遊で藩財政を又もや圧迫します。38才の時、桧原山で5日間の狩りをした後、発熱し、狂乱状態になり、亡くなります。
 
(5) 5代 長邑(ながまさ)時代~4代長円の長子
 
正徳3(1713) 4才で封を継ぎますが、享保元(1716) 7才で病死してしまいます。継嗣(けいし)なく領地を没収され、中津小笠原藩は消滅します。弟 喜三郎(長興)は播州安志(あんじ)1万石(兵庫県姫路市安富町安志)の知行を与えられますが、安志藩で長興も病弱で19才で隠居、継嗣なく小倉藩より藩主を迎え、その後、小倉藩の支城の如く扱われました。
 
 悪評のみを残した小笠原時代だと思われますが、少なくとも中津が城下町として存在を明確にしたのはこの時代であるのは確かです。
S(サンシン)著
荒瀬神社
小笠原長次の墓
小倉城
陣屋門

二 人 旅

2008-10-01
9月20日から3泊4日の旅行に行ってきました。初日は、京都の大谷本廟に亡父の遺骨を納め、清水寺、八坂神社などを散策しました。その後、大阪市内のホテルにチェクインを済ませ、大学に通っている三男の下宿を訪れ、帰りを待って夕食をともにし楽しいひと時を過ごしました。
 
翌日、北陸地方への旅に出発、福井駅の到着、新婚旅行と同様タクシーでの観光にとなりました。運転手さんも人柄もよく、私も妻も気に入りました。
 
日程はありましたが、運転手さんが希望がありますかと言われましたのでお任せしますとの返事を返すと、最初から予定外のコースとなり丹巌洞や柴田勝家の銅像を見学しました。雨模様の中、東尋坊、丸岡城、越前竹人形の里、新田義貞の墓、永平寺など観光しました。特に、丸岡城は柴田勝家の嫡男のお城で瓦が全て石を削って葺いているのには驚かされました。永平寺の堂内には、約200人の修行僧が全国から集まり修行をしているとの事ですが物音一つしない静寂がありました。翌日は早朝から、輪島の朝市、千枚田、切子会館、総持寺祖院、輪島漆器塗会館、能登巌門や千里浜なぎさドライブウエイなどを観光しましたが、千里浜では普通車で砂浜を走れて気分爽快になりました。義経の船隠しと呼ばれる場所もあり、義経たちが追っ手から逃れた道中とも重なり歴史家になった気分にもなりました。
 
最終日は金沢市内の観光となり、兼六園、ひがし茶屋街、金銀箔工芸、尾山神社(利家と松)、忍者寺、近江町市場、武家屋敷街などそれぞれ歴史がある場所の見学となり、思い出に残る場所ばかりでした。小松空港近くで、勧進帳で有名な安宅の関跡や国歌の中に出てくる、「さざれ石」も見ることが出来非常に楽しい旅行となりました。

㈱三信建材社
T.M

世界自然遺産(知床)

2008-09-01
今回北海道、道東の旅行に行ってまいりました。 暑い九州より涼しい北海道へ、と思いついたのですが、釧路湿原・摩周湖で気温は10℃位で大変寒いスタートとなりました。 しかし摩周湖では霧もなく、寒さも忘れるような景色でした。
 
 翌日は知床の自然を散策しました。 知床は平成17年7月に世界遺産に登録され、車の規制(車は途中から入れない)、食べ物の規制(お茶・水以外は持って入れない、お菓子アメ等も持って入れない。理由としてゴミを捨てない。動物にエサを与えない)があり、もちろん禁煙でした。
 
また、熊・鹿・キタキツネ他の動物等と、うまく付き合っているようでした。ただ鹿については、我が家の山にもたくさんいて全く珍しさはなかった。
 
自然の散策では猟師のネイチャーガイドと知床の原生林、知床の花(♪知床旅情♪出てくる はまなすの花を初めて見たがバラ科で棘がいっぱいついている花でした)等を、二日間で約4~5時間原生林や湖を歩きながら、季節的には10月初旬並で少し寒かったけれども、雨は一日も降らず、北海道の雄大さ、九州にはない自然と食を楽しみました。
 
㈱三信建材社
N.S

引  退

2008-08-01
野球シーズン真っ盛り、夏の甲子園・プロ野球後半戦・北京オリンピックと、野球好きにはたまらない時期になった。
 
テレビを観ながら一喜一憂し、一つのプレーを褒めたり・怒ったり・けなしたり本当に楽しませてもらえます。
 
こんな盛り上がりの中で、野茂投手の引退は非常に残念でならない。
 
見ていて楽しい投手がまた一人いなくなる。
 
野茂が入団2年目の北九州市民球場での、対ホークス戦を観戦した事を思い出す。
 
この時のホークスの投手は大分県出身の吉田豊彦だった。吉田も好調でお互いに
得点できない。三振の数も、野茂13個で吉田は9個ぐらいだった。
 
吉田の快速球に野茂の剛球、吉田のボールが高校生ほどの球威にしか見えない
ほど、野茂の球威は凄かった。
 
球場で実際に見た野茂は、これ一度だった。
 
この時の迫力は今でも記憶に残っている。
 
野茂投手の残した数々の記録は素晴らしいものがある。しかし記録よりも、
トルネード・フォークボールと言ったら野茂・・・まさに記憶に残る大投手 野茂英雄。

1995年11月 日米野球 1988年7月 都市対抗
バッター イチロー 

郷土史講座№11(中津 小笠原時代)

2008-07-01
中津 小笠原時代は初代長次(ながつぐ)から長邑(ながまさ)まで5代続きますが今回は初代長次と2代長勝(ながかつ)について話したいと思います。寛永9(1632) 細川忠利が熊本54万石、忠興が八代城に移ると播州龍野(兵庫県南部)6万石から小笠原長次が中津8万石 (上毛郡・下毛郡・宇佐郡)に転封してきます。本家・長次の父・忠脩(ただひろ)は元和元(1615)「大阪夏の陣」で戦死していたため、旧細川藩領(32万石)は中津に小笠原長次、小倉に叔父・小笠原忠真(ただざね)、杵築に叔父・小笠原忠知(ただとも)、龍王に叔父・松平重直(しげなお・松平家へ養子)と小笠原1族4家に分割されます。

(1)初代 長次(ながつぐ)時代
寛永14(1637) 「天草・島原の乱」が勃発すると、中津藩からも2,500名が派兵されます。翌寛永15(1638)2月27日 包囲軍が「原城」を総攻撃し翌28日 天草四郎時貞以下37,000名が殺害され落城します。小笠原長次は、その功績により日田6万石を加増されますが、藩で決着がつかず、幕府に領地を返還します。寛永18(1641) 草本金山(山国町)を長次が本格的に採掘を始めます。草本金山はその後、数度廃坑を繰り返しますが 昭和28年閉山まで採掘され、最盛期坑夫500人が働いていました。細川時代の「御水道工事」も承応(じょうおう)元(1652)に町中に給水できるようになり、この頃中津町14町も完成します。当時、小祝は吉富側と陸続きでしたが明暦元(1655)と寛文9(1669)の2回の大洪水で分断され三角州になりました。寛文6(1666)5月29日 長次は52才で死去します。長次時代は善政でしたが、2代目以降は悪政の為、藩財政を圧迫します。
 
(2)2代 長勝(ながかつ)時代
長次の遺言で次男の長勝に家督を譲りますが、延宝元(1673) うつ病にかかり、病気養生のためと称して幸子(こうじ・吉富町)に豪華な別荘(48室、3層、内部は金・銀を飾り立てる)を築き、静養する事になりますが毎日歌や舞で宴会続き、この為藩財政は圧迫します。国費の不足を補う為に下士の岩波源三郎に国政を委ねます。延宝6(1678) 岩波は130の条令を出しますが炭・紙・綿などにも重税を課し、その上、毎年起こる旱魃水害により、他国へ逃散する者が続出します。このことが幕府の耳に入り、幕府の叱責を受けます。天和2(1682)11月2日 長勝は江戸にて38才で病死します。
S(サンシン)著
中津城
小倉城
草本金山
御水道
TOPへ戻る